虎の威を借る

 この間のブログでは、漱石先生も若冲を買っていなかったようだ、というようなことを書いた。漱石先生もそう言っておるのだ、という典型的な虎の威を借るパターンである。
 虎の威の借り先としては、夏目漱石森鴎外が便利である。このふたりが言っている、ということにすればだいぶ重みがつく。
 たとえば、おれは源氏物語の面白さというのが今ひとつよくわからず、切れ目のない文章がだらだらと続いて登場人物全員がしょっちゅう悲しい悲しいとメソメソしている物語、というふうに感じる。おれの鑑賞力が足りないのかしらん、もしかしてダメなのかしら、と思っていたのだが、谷崎潤一郎の「文章読本」によれば、鴎外先生も源氏を買っていなかったようである。

たとえば森鴎外はあのような大文豪で、しかも学者でありましたけれども、どう云うものか源氏物語の文章にはあまり感服していませんでした。その証拠には、かつて与謝野氏夫婦の口訳源氏物語に序文を書いて、「私は源氏の文章を読む毎に、常に幾分の困難を覚える。少くともあの文章は、私の頭にはすらすらと這入りにくい。あれが果して名文であろうか」と云う意味を、婉曲に述べているのであります。

 鴎外先生が言っているのなら、少なくともひとつの重みのある見方だろう、とまあ、そんなふうに威を借りておれは少々鼻高々なのである。
 日本の文学史の中では、漱石先生と鴎外先生が屹立して威を演出できる。川端康成でも太宰治でも三島由紀夫でもダメだろう。かろうじて、先の谷崎潤一郎永井荷風ならジャンルによっては虎の威を借りられるかもしれない。
 まあ、虎の威を借りるのが卑怯者であることに代わりはないが。