ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を読んでいる。
第二次世界大戦のポツダム宣言受諾から連合軍の占領が終了するまでの生活、文化、政治、経済を膨大な資料から再構成しようとする試みである。
第一五章「勝者の裁き、敗者の裁き」と第一六章「負けたとき、死者になんと言えばいいのか?」を読んでいて、日華事変〜太平洋戦争についての当時の物の見方は、先の原発事故のそれに通ずるものがあると思った。
ひとつは、指導者層(原発なら原発村と東電と政治家の人々)が無垢な国民を災厄に引きずり込んだとする見方で、アメリカの外交官で日本を担当していたジョージ・アチソンはこういう報告書を打電したという。
日本国民のあいだでは全般的に、主な容疑者に戦争責任を負わせようというムードが強い。日本の敗北にくわえて、日本は侵略戦争をすべきではなかったという認識が高まっていると思われ、その悔しさが日本の指導者に対する強い怒りを生んでいる
「戦争」を「原発推進」と読み替えれば、現在の状況に通じるように思う。
戦時に国の宣伝に協力していた政治漫画家の近藤日出造は、一九四六年には手のひらを返すようにこう書いたという。
憎くなるのは、「第一級戦争犯罪者」どもである。われわれ国民は全部、かれらにだまされ、利用され、真相を知らずに、……戦争に協力してきたが、これは今思えば知らないからのこと、だまされたからのこと
原発の安全性についても同じく「だまされた」という見方があると思う。
一方で、何となくこれはまずいのではないかと思いながら流されてきたという後ろめたさもあった(ある)。「一億総懺悔」というスローガンは、出所は政府だが、おそらくメディアや国民の間のそうした後ろめたさが働いて広まったのだろう。原発のリスクについても、さすがに総懺悔という極端な見方はないものの、見過ごしてきたことへの自責の念を抱く人はいると思う。
破局が起き、たがが外れたとき、突然激しくピーチクパーチク始めるという型は、戦後も原発事故後も同じようだ。
少々皮肉な見方だが、こんな言葉もある。
一九四七年一二月、東京裁判判決言渡しのほぼ一年前、大衆月刊誌『VAN』が世論の変わりやすさを痛烈に皮肉って次のように書いた。「われわれは、「戦犯」と称される一連の戦争扇動者が登場したとき、拍手喝采をもって彼らを迎え、失脚したとき、人々にならってこれに唾をかけ、そして、――今ではもうほとんど彼らのことなど忘れている」
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