読点の機能

 前回書いた語の順番にも関係するのだが、わかりやすい文を書くには読点(、)をどう打つかもポイントのひとつだ。
 読点がいつから使われるようになったのかは知らないが、現在の読点の機能は英語におけるコンマ(,)の使用法に似ている。もしかすると、明治期に新しい日本語を生み出す際に西洋語のコンマの機能を導入したのかもしれない(いや、思いつきだが)。しかしながら、日本語の読点はコンマより使用法が曖昧で、必ずしも共通認識はできていないようである。
 たとえば、こんな読点の打ち方を見かけることがある。

大きな美しい花を咲かせる、木が生えていた。

 日本語の読点の使用法が定まっていない以上、間違いではないが、この手の文は読みにくいとおれは感じる。「咲かせる」は「木」にかかっているので、ここで文を切るのは文の流れを悪くすると思う。
 おそらく、この手の読点の打ち方は「大きな美しい花を咲かせる」をひとつの文(述語で終わるひとつの単位)と捉えているか、もしくは「咲かせる」の後でためを作りたいと考えているかのどちらかだろう。
 あくまでおれの考え方だが、読点は文の流れを制御するために使うのがよいと思う。いや、「使うのがよい」というより、そちらのほうが読みやすくなる。文の流れを制御するとは、修飾語の係り結びの関係をはっきりさせるとか、重文や複文の構造を明確にするとかだ。

○ 美しい庭と、バルコニーのある家。
? 美しい庭とバルコニーのある家。

 この例の場合、後者は庭だけが美しいのか、バルコニーも美しいのかわかりにくい。前者にすると係り結びの関係がはっきりし、庭だけが美しいとわかる。

馬鹿馬鹿しいので、もうやめにしようと私は笑った。
馬鹿馬鹿しいのでもうやめにしようと、私は笑った。

 文の構造を明確にするとはこういう場合だ。前者の場合は「馬鹿馬鹿しいので私は笑った」のであり、後者の場合は「馬鹿馬鹿しいのでやめにしよう」と私が言ったのである。
 ただ、「文の流れを制御する」という意味を広く捉えると、先に書いた「ため」の用法も一種の文の流れの制御と言えるから厄介である。

美しい、木の家。

 広告によくこの手の書き方がある。美しいの後に読点を打つことで、息を飲むような効果を生み出そうとしている。美しいのは木なのか家なのかわかりにくい。あるいは、わざとぼかしているのかもしれない。
 わかりやすさ、明確さの点では一歩下がるが、一方でこの手の曖昧な書き方が情緒的な意味で日本語の表現を豊かにしているところもある。わかりやすさ、読みやすさの視点だけで文のよしあしは決められない。