欧文と洗練

 自分のまわりで欧文がどのくらい使われているか、一度、意識してご覧になってみていただきたい。ちょっと驚くぐらいの欧文が使われているだろう(お寺の本堂で読経をしながらこれを読んだりしている方はちょっと別かもしれないが)。
 でもって、次に、それがなぜ和文ではなく、欧文で記されているか類推してみていただきたい。もともと欧米のものだった場合を除けば、「洗練して見せるため」という理由のものが相当たくさんあるはずだ。
 日本では(あるいは中国や韓国でも同じではないかと思うが)、「欧文=洗練のシンボル」という感じ方が浸透している。
 一方で、ここからはいささかの類推だけれども、生まれ育った頃から欧文を生活の中の文字表記として読み続けている欧米の人は、おそらく、欧文だからといって、特に洗練されているという印象を受けないのだろうと思う。
「欧文=洗練」という感じ方に染まっている日本で、そういう欧文の使い方をするのはある程度しょうがないとは思うが、その同じ文字表現を欧米の人が見た場合には、「洗練」という要素がおそらく抜け落ちて見える。もしかしたら、ひどく恥ずかしい文字遣いをしている可能性もある。タトゥーによくあるように、欧米の人が「東アジア風の文字遣い」をするのが、日本人には奇妙に見えるように。あるいは、欧米の人が喜んで「一番」と書かれたTシャツを着たり、日の丸に「神風」と書かれた鉢巻きをしたりするのが、ほほえましく見えるように。
 この「洗練」についてのズレというのは、引いて見るとなかなかに笑えるが、近寄って見えると笑えない気もするのである。