観念論のグルグル

 観念論という言葉があって、まあ、要するに頭と口先で論理(悪く言えばリクツ)を組み立てて、ああだこうだと述べ立てることを言う。この世にはかつてドイツ観念主義なる聞くからに恐ろしげな主義もあったそうなのだけれども(何しろ、ドイツであるうえに観念で主義だ)、おれは恐ろしくて近寄ったことがない。だから、ドイツ観念主義なるものがどういうものなのか知らない。
 しかしまあ、人間の考えることで観念論でないものというのはなかなかなくて、早い話が言葉を使った時点でもはや観念論である。「木がある」と言ったって、あれやこれやといろんな形をしていろんなところに生えている幹の硬い枝なんぞのあるしかし竹ではないあの植物を「木」とひとくくりにしてしまっている。あるいは、晴れた曇った雨が降ったと言ったって、いろいろな晴れ曇り雨があり、それらをわしらはぞんざいにくくって分類してしまっている。観念のお世話にならずばわしらは天気の話すらできないのである。観念論でない思考というと何だろう。大工が目の前の材木を手にとって、これとこれを組み合わせたらこうなると考えるような、すこぶる即物的な思考法であろうか。
 しかしまあ、あんまり観念論に頼りすぎるのもどうなのかなあ、と、おれは自分の頭が悪いせいもあるが、そう考えている。たとえば、資本家と労働者なんぞと言う。労働者のほうはまだわかるが、資本家とは誰のことなんだろうか。生命保険会社か。では、生命保険会社に積み立てしている労働者はどう考えればいいのか。あるいは、民衆とか人民と呼ばれる人は誰のことなのか。まあ、昔のイギリスのように、階級がばしっと決まっていて、上流階級、ブルジョワとその他の人々にはっきり分かれていれば階級闘争だの民衆だの資本家だのとある程度言えそうな気がするが、今の日本に当てはめようとすると随分と無理が出てくる気がする。
 観念論の欠点は、観念のほうから現実を見て、現実を観念のほうに無理矢理合わせて考えてしまう罠に陥りがちなところだと思う。観念というのは物事を整理しやすく、というか、元々物事を整理するための道具であるから、物事を単純化でき、すっきりとわかり、その先のことを考えやすいと感じるのであろう。しかし、まあ、世の中というのは人の頭の中とは別の案配でいろいろ複雑厄介に動くもので、単純化して先が読めれば苦労はないと思うのである。
 とまあ、あれやこれや書いてきたが、今日のこの話もすこぶる観念的であった。自己矛盾である。馬鹿が観念論を振り回すとろくなことがないという見本のような文章であった。