音階の不思議

 今の時代に日本で生まれ育った人はたいていそうだと思うが、西洋音楽系統のドレミファソラシドという音階は非常になじみやすい。聞いていると、ある種の快さを覚えやすいだろうと思う。日本の癖の少ないポップスのメロディは多くがドレミファソラシドの組み合わせでできていて、特に最近の、中学校の合唱コンクールみたいなポップスにはその傾向が顕著だ。もちろん、音楽を聴く耳が育っていくうちにドレミファソラシドでは割り切れない音階、例えばブルーノートや十二音階、あるいは半音階等々に快さを覚えるようにもなるが、いろんな人に受け入れられやすいという意味ではドレミファソラシドの浸透度というのは大したものである。
 しからば(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%ABhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%90)、ドレミファソラシドが普遍的な音階なのかというと、必ずしもそうは言えないと思う。いわゆる民族音楽西洋音楽だって本来は民族音楽だったのだけど)にはドレミファソラシドでは割り切れない音階も多いようだ。たとえば、アラビア系の音楽を思い浮かべていただけばよい。日本の伝統音楽も、民謡などはドレミファソラシドのうちのどれか五音を使っていることが多いが、義太夫や清元のような浄瑠璃の節回しというのはそもそも音階で捉えるのが難しいように思う。
 では、現代の日本で生まれ育った人間がなぜドレミファソラシドになじみやすいかというと、ハテ、なぜだろうか。慣れの問題なのか。つまり、ガキの時分からドレミファソラシド系の曲をたくさん聞かされるうちに、それが「自然」「快い」というふうに感じられてくるのかもしれない。いや、保証はないが。誰か赤ちゃんのいる人は今後一切ドレミファソラシド系の音楽を聞かせず、義太夫と清元だけを聞かせて育ててみていただきたい(もちろん、学校の音楽の時間は休ませる)。どういう音階感覚を持つようになるのだろうか。
 あくまで直感だが、ドレミファソラシドという音階は、数学が普遍的であるような意味では、普遍的ではない。科学技術文明のような意味でも、普遍的ではない。いわば、西洋の民族衣装であったスーツが世界に広まって、多くの人にとって「普通の格好」に感じられるようになったように、西洋の民族音階が世界に広まったということだと思う。もしかしたら、帝国主義の影響ですな。別にかまわんけど。