抽象と具象

 映画「ラフマニノフ」を見た。密かに期待していたほど深みのある映画ではなかったが、退屈せずに楽しめた。

ラフマニノフ ある愛の調べ [DVD]

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 当然ながら、映画にはラフマニノフの曲がたくさん流れる。これまであまりラフマニノフの曲を聴いたことがなかったのだが、案外と甘く、聞きやすい。音の成り立ちとしては映画音楽に近い。というか、おそらくこのあたりの音の感覚(他にラベルとか)がハリウッド的な映画音楽の源なのだろう。

 でまあ、例によって思考の桂馬飛びなのだが、音楽の抽象と具象ということについてふと考えた。具象、すなわち具体的に何かを表す、という意味では音楽という芸能/芸術は、歌詞を除いて抽象度が高い。フルートがトリルをして鳥の鳴き声を表す、なんていうことはあるけれども、その手の表現がそう頻繁に出てくるわけではない。ドレミファソラシド〜と弾いても、それが現実世界の何かを具体的に表現しているわけではないのだ。しかし、それでもある音楽を聴いていて、風景や情景を思い浮かべるということはある。これはいかにも不思議な効果ではないか。

 これは絵、特に西洋画の流れと逆のようにも思う。西洋画では、19世紀後半の印象派あたりから抽象表現が準備されて、20世紀に入ってから、「実は絵というのは色と形と素材感の抽象的な組み合わせなのだ」ということが意識されるようになった。具象の中から抽象が発見されたわけである。しかし、音楽、特にクラシックの器楽曲についてはその随分と前から抽象表現の中から具象的な何かをつかみ出すようなことが行われてきた(ように思う)。

 抽象表現の中に具象的なものを見出すということでは、音楽は西洋画よりむしろ茶器の紋様に近いかもしれない。釉薬の垂れたような跡に美を見出す、なんていうのは、抽象的な音楽表現に美を見出すのに似ている。あるいは茶碗の歪んだ形を何かに見立てる、なんていうことは音楽に具象を見出すことに似ている。紋様ということでいえば、抽象表現の美は昔から世界のあちこちで追求されてきたようである。ありゃ、そう考えると、音楽だけが特別ってことはないか。

以上、思いつきを書き飛ばした。例によって結論はない。放り投げっぱなし。