フラ

 落語方面の言葉に「フラ」というのがある。その人独特のたくまざるおかしみ、笑いを誘う雰囲気、みたいな意味で、「フラがある」なんていうふうに言う。
 例えば、志ん朝がいい例で、あのポワーッとした感じというのは真似ようとしたって真似られるものではない。
 先代の小さんもフラがあって、ちょっとしたことでも小さんが言ったりやったりすると妙におかしかったと聞く。小さんの落語はぼそぼそとしたしゃべり口調であまりメリハリがないけれども、聞いているうちにおかしくてしょうがなくなるのはフラがあるからこそなんだろう。
 現役では、桂ざこばがフラのかたまりのような人で、ちょっと他の人は追いつけないくらいのおかしみがあると思う。ざこばの落語は演じているというよりも本人がそのまま落語の登場人物になったような具合で、おかしくてたまらない。
 フラがないといい落語家になれないかというとそんなことはなくて、例えば、桂吉朝なんかはあまりフラのあるほうではなかったんだろうと思う。それでも、噺は聞いていて、とてもおかしい。先代の桂文楽なんかも、もちろん生で見たことはないけれども、あまりフラはなかったんじゃないか。
 若い頃はそうでもなかったけれども、年をとってからフラが感じられるようになったという人もいるかもしれない。志ん生の若い頃の噺は聞いたことがないけれども、写真を見る限り、随分と陰気な顔をしている。よく知られたあの何とも言えないおかしな雰囲気というのは、年をとってから出てきた感じではないかと思う。小三治なんかはどうなんだろう。若い頃はあまりフラを感じられなかったけれども、今は何とも言えずおかしい雰囲気がある。しかし、小三治の場合は努力してそうなったという気もして、もしかすると芸の力であって、正確にはフラではないのかもしれない。
 普通の人にもフラのある人というのはいる。たまに行く寿司屋の親父がそうで、「この人は落語家になったら、さぞおかしかったろうなあ」と思う。まあ、寿司屋の大将としてもフラがあるのはいい感じなのだが。
 もし職場にフラのある人がいたら、それは業績云々とは関係なく幸せなことだと思う。
 志ん朝と小さんとざこばが一緒に並んで踊ったらさぞやおかしいだろうと思う。これを称して、フラ・ダンス……って、駄洒落だ。ダメダメである。