新しいという麻薬

 戦前の浪花節の人気というのは今からは想像がつかないほど凄いものだったらしい。浪曲師は休む間もなく会場をまわって随分と儲かったが、あまりの忙しさのせいかたいがいは壮年で亡くなったそうだ。あまりに儲かるので、ヤクザが人気の浪曲師を囲い込み、それがしばしばトラブルになったと聞く。
 語り物の世界では、清元、その前には富本、あるいは一中節や義太夫が一世を風靡した時代もあったらしい。新しいスタイルがわっと人気を呼ぶということは昔からあったようだ。
 新しいものがいいとおれは必ずしも思わないんだが、しかし新しいものならではのコーフンはあると思う。例えば、音楽でいえば、新しいスタイルの音楽には聞いていて随所に発見がある。ある音の組み合わせの発見がコーフンを呼ぶ。また演る側も演奏しながら発見のコーフンを味わっているから、独特の熱気や勢いが生まれる。そしてしばらく経つと飽きられてしまう。
 そういう新しさというのは一種麻薬のようなものだと思う。つまり、発見を欲して次を、次をと求めてしまうのだ。音楽に限らず、新しさと発見は浮気で飽きっぽい人々に求められ、また(時に無内容に)持て囃されるところがある。
 そういう新奇な新しさが飽きられた後には、そういう部分では勝負していないものが残る。新奇な発見とはまた別の部分のよさがある。いろいろな時代、世代の人を魅了するという意味では、普遍的なよさといってもよいのかもしれない。登川誠仁やボー・ディドリーの音楽なんかがそうだ。スティービー・レイ・ヴォーンは新しさもあったかな? でも、彼の音楽の根本のよさは目新しさの部分にはない。