携帯を操る姿

 おれは携帯を、持ってはいるがほとんど使わない。電話も事務的な用以外にはほとんどしないし、メールも多くて二週間に一本くらい、誰かから来たら返信するくらいである。もちろん、持っているのはガラケーだ。

 人間、自分がやらないことに対しては手厳しくなりがちで、昔、青年向けの漫画が出てきた頃には「大人にもなって漫画なんか読んで」と揶揄されたらしいし、ゲームが普及した頃も、若い世代は「ゲームに夢中になって気味が悪い」と叩かれたようだ。この分では、将来、若い世代の間で儒学がブームになったら、「いい年して四書五経に夢中になって」と言われるのではないか。

 でまあ、おれは、自分があまり携帯を使わないものだから、携帯を操っている人をどうも批判的に見てしまう(根本的な原因はおれが小人物だからなのだが)。街を歩きながら携帯に見入っている人が奇妙に見えてしょうがないのだ。いや、ほんとだ。普段、携帯をよく使う人も、一度、素に戻って、街行く人をご覧になってみていただきたい。携帯に夢中になって歩いている状況というのは、変である。

 第一、携帯を見ながら歩いているあの姿というのはみすぼらしい。背筋をピンと伸ばして腕を直角に上げて北朝鮮の軍事パレードみたいな具合で携帯の画面を見る人というのはあまりいない。携帯の画面をのぞき込むと、どうしても肩をすぼめて猫背のうつむき加減となりがちで、貧相に見える。学校からの帰り道、点の悪かったテストを母親の不機嫌な顔を思い浮かべてため息つきながら眺めている小学生みたいな具合になる。広い外の世界に身を置きながら、自分の狭い世界に引きこもっているようで、変てこである。

 今、「自分の狭い世界に引きこもっているようで」と書いたが、本人からすれば携帯を通してつながっている自分の主観的な世界は広いのだろう。その広い世界は、まわりの人からは見えない。だから、携帯を操る人の姿というのは、実際にそこに存在する世界との断絶を象徴的に表しているとも言える。