寝床本能

 おれは落語の「寝床」が好きだ。義太夫を習っている大店の旦那が、嫌がる長屋の連中や奉公人達に破壊的に下手くそな義太夫を無理矢理聞かせるという話である。

 落語家それぞれが工夫するギャグも楽しいのだが、あの話がウケる根本には、寝床の旦那の心理が何となくわかるということがあるのだろう。しかし、考えてみると、なぜ我々は今取り組んでいる習い事やら何やらを人に披露したくなるのであろうか。

 人に褒められたいという心理は、まあ、ある。しかし、例えば、下手な楽器演奏をやるときなんかは、褒められればうれしいだろうけど、まあ、それは無理だろう、という冷静な気持ちもどこかにある。寝床の旦那にしても、褒められるために義太夫を披露するという心理は、それほど強くないように感じる。

 自分の力量の瀬踏みのために、という理由も時にはあるかもしれない。人に聞いてもらって、あるいは見てもらって、批評してもらうというものだ。しかし、評価だけが目的で人に披露するなんてことはさほどないのではないか。人に何かを披露するときのうれし恥ずかしの心理というのは、評価を得てさらなる向上を目指す、なんていう理性的な態度からはかけ離れているように感じる。

 人に何かを披露したくなるというココロは、生命の維持とか、種族の存続とかとは遠く離れているだろうし、社会的関係云々、と考えてみてもどうも無理がある。確かにそこにあるんだが、何だかよくわからない。それとも、何でもかんでも遺伝子と結びつける人が考えたがるように、遺伝子にでも組み込まれているのかね。「寝床の遺伝子」。誰か、見つけてくれ。