ボケっぱなし

 ボケとツッコミという言葉、あるいはコミュニケーションのやり方は、今では日常生活にすっかり定着したように思う。
 おれは、誰かがボケたらツッコむべきである、とする考え方があまり好きではない。たとえば、自分からボケておいて、「ほら、今、ツッコむところ!」などと言い出す輩がいる。予定調和を求めるというか、一種の甘えがそこには見られる。まるで雄々しさというものがないではないか。ボケたら、ボケ倒せ。ボケっぱなしでいろ。ボケの栄光と孤独を背負うて遠き道を歩め、と思う。

 話は少し変わるが、おれがこれまでの人生で最も多くの回数見た映画は、先に亡くなったレスリー・ニールセン主演の「裸の銃(ガン)を持つ男」である。

裸の銃(ガン)を持つ男 [DVD]

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 ザッカー兄弟&ジム・エイブラハムズのチームによる映画は他にもまあまあ面白いものがあるし、「裸の銃」シリーズの2、3(正確には2 1/2と33 1/3)も悪くはないが、やはり、一本目の「裸の銃(ガン)を持つ男」が群を抜いている。作った人々のピークが見事に重なったのか、何かの勢いがあったのか、神様が微笑んだのか(爆笑したのか)、ダントツである。
裸の銃(ガン)を持つ男」のいいところは、主演のレスリー・ニールセンはもちろん、出演者全員がボケっぱなしのところである。誰もツッコまない。ボケたら、そのまま放置だ。ボケて、ボケて、ボケ続けて、映画は終わる。
 まあ、そもそもアメリカの映画にツッコミはあまりないが、ボケ続けることの凄さ、ボケが最高レベルで連続したときの破壊力がどういうものかこの映画は教えてくれる。

 漫才のボケとツッコミはちょっと違うと思うが、日常生活におけるボケとツッコミには、どこかに「安心したい」という気持ちが隠れているように思う。収まりをつけるためのツッコミ。おそらく、ボケたままだと人は不安になるのだ、日常生活的な平穏さが破られて。いや、日常生活に限らず、テレビのバラエティ番組なんかにも、そういうつまらない「安定」のためのツッコミがあるように思う。

 ボケたらボケっぱなしでいろ。ボケるんならその気概を持て。誰かに拾ってもらって収まりをつけよう、なんて甘えた考えは捨てろ、と思う。