陰謀論

 陰謀論というのはなかなか厄介で、よくできたものになると、何しろ陰謀であるからして簡単には実証も反証もできず、「あるいはそうかも」と思わせてしまう。その人の状態によっては「あるいはそうかも」と「そうに違いない」の距離は意外なほど近く、一度信じだしたら、多分に心理の基調部分と絡み合っているもんだからなかなか払拭できなくなる。

 たとえば、原子力関連の専門家が「心配するような数値ではありません」とテレビで言っても、「こやつらには原子力化を進める国家権力の息がかかっておるのだ」と考え出せば、これはシロウトには実証も反証もできず、事実かどうかよりも、そう見たいかどうか、という心理的事情のほうに決定権が行ってしまう。

 陰謀論に対する耐性を作るには、こうしたらどうかと思う。何か気になるものを見たら、「これは○○の陰謀に違いない」と考えてみるのだ。「○○」に入るところは国家でも某国でも隣のおかみさんでも神様でも何でもよい。

 たとえば、スーパーや薬屋でトイレットペーパーやティッシュペーパーが品薄だとする。「これは某国の陰謀に違いない」とひとりごつ。停電したとする。「これは石油メジャーの陰謀に違いない」とひとりごつ。会社の経理の可愛いあの子が結婚してしまった。「これは神様の陰謀に違いない」とひとりごつ(こういう話にぴたりと来るのは、やはりセム・ハム系一神教の神様だ。「これは仏様の陰謀に違いない」とか、「これは大黒様の陰謀に違いない」というのはどうもぴたりと来ない。超越的存在の存在様態の違いというものだろうか)。まあ、そういうふうにしていれば、たいがい、陰謀論というものの仕掛けと馬鹿馬鹿しさを実感できると思う。

 あんまり悪いふうにばかり取ってみるのも心が汚れるようなら、たとえば、チューしたときとかに「これは神様の素敵な陰謀に違いない」とひとりごちてみる、なんていうのも、精神上のバランスを取るうえでいいかもしれない。

 なお、今日の日記は、米国国務省極東局の陰謀により書かせていただきました。