湿った布団性

 普段はあまりひとりで飲みに行かないのだが、出張先では晩飯と兼ねて飲み屋に行くことはある。
 先週はしばらく東京にいて、ある晩、赤坂見附の飲み屋にふらりと入ってみた。焼き鳥とおでんの店で、古びたというよりは小汚いに近い。店側は料理する六十代の主人がひとり、手伝っているおばさんがひとりである。仕事帰りとおぼしきサラリーマンのおっさんがひとりずつカウンターに座っていて、スポーツ新聞を読んだり、ぼんやりしたりしながらそれぞれ一杯やっている。奧の席には四人組のサラリーマンがいて、何やら話している。客は男ばかりで、全体にどぶねずみ色と言ってもよい。主人はあまりやる気がなさそうで、物腰に惰性の感覚がとりついていた。手伝っているおばさんはいろいろ段取りが悪く、注文を受けたり、料理を運んだりするたびにあたふたしている。しかし、客は別にいらつくわけでもなく、のんきに構えていた。頼んだ焼き鳥は不味くはないが、格別にうまいというわけでもなかった。店内には、若い頃の勢いを失った都はるみがさまざまな演歌をカバーしているアルバムがかかっていた。
 一杯飲み屋といっても阿久悠が「舟唄」で描いたようなしみじみほろほろの情緒なんてない。隠れ家と呼ぶほどでもない。人によっては「終わっている」の一言で片付けられそうな店で、何が売りになるということもなさそうだが、妙に居心地がよかった。
 そういう居心地の良さを何と形容すればいいのだろか。「ぬくもり」と呼ぶと、現代の広告宣伝マーケティング文化につきまとう型どおりの薄っぺらさ、嘘くささが感じられる。そうではなくて、湿った布団の妙ななじみ方に近いように思う。日に干した布団の心地よさは称揚されるし、現代の広告宣伝マーケティング文化にもなじみやすい感覚だが、しかしそうではないよさ、ポジティブな言葉では表現しにくいよさというのもあるように思うのだ。体臭体液体温のしみこんだダメのよさというかな。わかる人にはわかるが、わからない人にはわからないだろう。当たり前か。