学生を敵と見ること

 京都の町はおおよそ平坦だから、自転車で走るのに向いている。今の季節、空気は冷たいけれども、自転車をこいでいるとだんだんと体の奥から熱を発してきて、風も心地よく感じられる。それに、自転車をこぐとランナーズハイのような一種のトリップ感を覚える。

 京都市内の移動にはだいたい自転車を使っている。京都は一面学生の街であって、自転車に乗っている若者が多い。これが腹立たしいことが多いのだ。

 一番腹が立つのは携帯電話を操りながら自転車に乗っている馬鹿学生(学業についているかどうかは知らないが、そのくらいの年の人々)で、一度、夜に正面衝突しそうになったことがある。京都御所の裏を走っていたら(京都の夜道は市内でも結構暗い)、この馬鹿、片手で携帯を操りながら結構なスピードでつっこんできやがった。こちらの急ブレーキの音でようやく顔を上げたが、いったい何を考えているのかと思う。まあ、何も考えていないのだろうが。

 原付に乗りながら携帯を操る馬鹿はいないだろうが、自転車に乗りながら携帯を操るのはそれと大して変わらないスピードで画面に集中しているわけで、実にもって危ない。とっさに身動きの取れない乳母車に携帯を操っている馬鹿が突っ込んでいくところを想像すると、オソロシイ。

 自転車で並んで走っている馬鹿学生どもも腹立たしい。京都は自転車で走るのに向いていると書いたけれども、歩道は狭いところが多く、その点では自転車には不便である(歩行者はもっと迷惑しているだろうが)。自転車で並んでのたくた走りながら「一限の授業がさー」とか話している阿呆どもに前をふさがれると、おれがもしカラテの使い手なら必殺の跳び蹴りを繰り出してやるところだ、と思う。

 こういう学生に対する敵意、悪意はどこから生まれるのかと自分でも思う。実際に個人としての学生と知り合ってみると、性格のいい子も、話せるやつも、気遣いのできるやつもいる。集団として見たときの「バーカ」という敵視は、まあひとつには、古代メソポタミアの昔からあるという「最近の若い者は〜」という感覚なのだろう。こっちがジジイということだ。伸びてきて自分を追いやろうとしている潜在的脅威を叩きつぶしたい、という感覚も含まれているかもしれない。また、あの学生独特の切迫感のない気楽な感じが羨ましく腹立たしくもある。

 自分が学生だったときのことを考えると、同じく無配慮で脳天気で騒がしく、まわりはさぞ迷惑していたのだろうなー、と思う。いや、今の学生以上にひどいもんだったかもしれない。そういう気恥ずかしさと、悔恨に胸カキムシリたくなるような感じもまた作用しているように思う。

 おれは狭量だなー。