メッセージ性と音楽

 この間の日記では、ジョン・レノンロジャー・ウォーターズをメッセージ主義的、ポール・マッカートニーとデイブ・ギルモアを音楽主義的といささか乱暴に書いたけれども、メッセージ主義、音楽主義というのは自分でもあまりよいくくり方とは思わない。ジョン・レノンの曲がメロディ、コード、リズム、トーンといった伝統的な音楽の観点で劣っているわけではないし(皮肉なことに、日本で「イマジン」が愛好されているのは、曲調と、ちょっとした歌詞の切れ端の印象によるところが大きいと思う)、ポール・マッカートニーが何の考えも持たずに感覚だけで音楽をやっているわけでもないだろう。ただ、政治・社会のありようについての観念を音楽で表現することを是とするか、それとも伝統的なメロディ、コード、リズム、トーンの感覚と、伝統的な歌詞内容のバリエーションから音楽を作ることを重視するかという違いはあると思う。音楽上の革新的立場と保守主義的な立場の違いというか。おおざっぱに言うと、ジョン・レノンロジャー・ウォーターズは演繹的で、ポール・マッカートニーやデイブ・ギルモアは経験論的な印象がある。

 ストレートな政治的なメッセージが音楽に入るようになったのはいつのことだろうか。日本でも明治時代に川上音二郎オッペケペー節が政治を取り扱って人気を博したようだ。なんとまあ、YouTube川上音二郎の音源があった。

 ある意味、ラップみたいな歌である。これの古いSP版を1970年代後半にニューヨークで聞いたグランドマスター・フラッシュが啓示を受け、グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴを結成してヒップホップの創始者となったのは有名な話である(嘘である)。

 しかしまあ、これは戯れ歌、川柳のようなもの、寄席芸に近いものだろう。よく知らないが、アメリカのカントリー・ソングにもこれに似た発想のものがあるかもしれない。

 生活の困窮や辛さを歌う歌なら昔からある。日本ではたとえば五木の子守歌がそうだし、アメリカのブルースにもたくさんある。ワーク・ソング、働きながら歌う歌にはそういうものが多くなりそうだ。

 ビリー・ホリデイの「ストレンジ・フルーツ」は木に吊るされたアメリカ南部の黒人を歌った衝撃的な歌で、政治的な歌と言えるだろう。しかし、観念や理屈を歌っているわけではない。「ストレンジ・フルーツ」は経験論的な内容だ(具体的な想像を喚起する)。自信はないが、政治的理屈を背景に持つ歌がある程度受け入れられるようになったのは60年代あたりからだろうか。日本のフォーク・ソングにも60年代のアメリカのフォークから影響を受けたものがたくさんあったようだ。ジョン・レノンの歌の形が受け入れられるにはそうした下地が大きかったのではないかと思う。

 音楽という伝統的には芸能的要素が強いものに政治的理屈のメッセージはなじみにくい面があると思う。「楽しくやってんのに、そんなもの持ち込むなよな」というような感覚だ。演繹的な理屈・観念を前面に出した音楽が受け入れられるにはある種の成熟というか、聞く側の変化が必要だったような気がする。