理解、納得、知識獲得、共感

 毎度ながらいきなりの話題で恐縮だが、今朝、突然の腹痛に見舞われながら、理解、納得、知識獲得、共感の違いについて考えた。

 痛みというのは人体の信号であって、基本的には「何かまずいことが体に起きているから何とかしなされ」ということを神経系統を使って知らせているわけである。たとえば、足がちぎれて血がどくどく出ているのに何の信号もなく平気でいるというのは、これは生存上すこぶる問題なわけで、イタイイタイアタタタタという不快な信号を送ることによって、異変とその重大な影響を認知させ、何か対処法を探させていると言える。痛みという仕組みの出現は進化の過程上とても大きなことだったのだろうと思う。

 ……などということを腹痛に見舞われているときに考えても一向役には立たないし、気休めにもならない。信号云々という考えが知識獲得だからで、知識には実感というものが関係しないから慰めにならないわけである。共感のほうにつながるのは知識ではなく、まさに今自分を苦しめている(あるいはいつか苦しめていた)痛みそのものだ。

 同病相憐れむといって、同じ辛さを体験している者同士というのはその辛さについて理解しあえる。共感の作用である。逆に、自分の体験したことのない辛さというのは、少しは想像できるかもしれないが、率直に言って本当のところはわからない。わたしは腹痛はよく体験するからその辛さを身につまされるけれども、結石や心臓発作の辛さは体験したことがないから本当のところはわからない。観察や人の話から知識は得られても共感はできないということだと思う。もちろん、結石や心臓発作が苦しくないと言いたいわけではなくて、ただわたしには(まだ)身をもって理解はできないだけである。養老孟司の「バカの壁」に確か、出産のビデオを学生に見せると、男子学生はさらっと見てわかったような顔をするが女子学生は真剣に見て深く感じ入る、という話が書いてあったと思う。男子学生にとっては出産というのは知識だけれども、女子学生は自分の将来に大いにあり得る出来事として共感するということなのだろう。

 知識獲得と共感は大いに離れている。理解は広い意味を持つ言葉で、知識獲得と共感の間のかなり広い部分をカバーしているようだ。納得は知識獲得に近いが、共感の要素が少し入っているように思う。ストンと腑に落ちる感じというのはドライに知識を得た得ないという話とはちょっと違うからだ。

 話が飛んでアレだが、歌というのはたいがいが共感のほうでできあがっているようで、知識獲得(授与)を目的とした歌というのは少ないように思う。ABCの歌とか、メリーさんの羊に合わせて「♪殷、周、春秋戦国〜」などと歌うのはまあ知識獲得の歌と言えるかもしれないが。恋をした、愛しい、恋に破れた、馬鹿女め、でも懐かしい、などとずっと同じようないくつかのモチーフを歌いながら、共感し続けてきているわけである。