ジャンルと癖

 つらつらといろんな文章を読んでいると、ジャンルによって傾向というか、癖のようなものがあるように感じる。

 わかりやすい例は思想好きの人々の文章で、「〜性が」とか「逃走」とか「言説」とか「胚胎」とか「非〜的」とかそういう言葉が並びがちである。おれはその手の文章を見かけたら脳が止まる前に逃げ出すことにしている。馬鹿は馬鹿なりの防御戦術である。

 サッカーだと大げさな気取った持って回ったような言い回しが多い。「そのオリュンポスの神々にも比すべき彼らの足から」、「魔術的なパスが繰り出されたとき」、「相手チームのディフェンダーはメドューサに見入られた哀れな男たちのように呆然と動きを止め」、「そしてただ試合が早く終わってくれることを祈るばかりとなるのである」とかなんとかそんな感じである。プロレス中継をやっていた頃の古舘伊知郎に少し似ているかもしれない。もっとも、これはプロ・サッカー、特にヨーロッパ系のそれについてであって、草サッカー系だとまた違うのだろう。魔術的なパスが繰り出されてメドューサに見入られることはあまりなさそうだ。南米系のサッカーの文章はどうなのだろう。まさか、「アミーゴがキックしたら、ゴーーーーーーール!」なんてことはないだろうけど。

 ロック系、特にシリアスなものについての文章は、漢字の熟語がやたらと多い。「真摯に彼らが音楽と対峙し、結実した成果が」とか「この大傑作という凱歌」とか「苦闘の果てに」とか「内紛の危機に見舞われながらも」とか、大仰で(内紛ったってバンドなら4、5人の喧嘩である)、しかしいささか紋切り型の言い回しをよく見る印象がある。あのさー、そこまで力んで肩入れせんでも、と思うのだが、まあ、シリアスなロックを好きな人というのは深刻げで極端なものをたいてい好むから(あるいは極端な状態を思い込みたがるものだから)、漢語の大仰でエキセントリックな感じと合うのかもしれない。

 もちろん、それぞれのジャンルでみんながみんなそういう文章を書くというわけではなく、何となくおれが抱いている印象である。

 こういうのも、先行するものの影響を受け、あるスタイルに価値を覚えるようになるという意味で、一種の文化なのだろうか。