土地への愛

 京都で暮らしてみて感じることのひとつに、京都の人の京都への愛情がある。京都には京都のことが好きな人が多い。他の土地への憧れや、部分的に京都のこういうところが嫌いということがあったとしても、全般的には多くの人が京都を愛している。
 実際、京都にはよいことが多い。神社仏閣観光地が多いというのは、まあ、外からの視点であって、地元の人は、観光業者を別としてそういうところにはあまり行かないようだ。伝統、文化といういささか手触りのない言葉で呼ぶとつまらない感じがするのだが、人々や町にある種のずっと続いている空気があって、それに対する愛着が濃いように感じる。
 では、そういうよいものがあるから京都の人が京都を愛しているのかというと、よくわからない。よいもの、優れているものというのは愛情を補強する要素にはなるけれども、愛情の根本とは限らないからである。たとえば、広島カープのファンが広島カープを愛するのは、広島カープが優れたチームだからだろうか? そういうことが全くないとは言わないけれども、むしろ広島カープがすでにそこにあり、慣れ親しみ、そのことから逆にチームをよきものと感じるようになったからではないか。
 よく書くけれども、生まれ育った土地への愛情というのは親への愛情とよく似ている。人が親を愛するのは、親が世間一般の標準と比べて優れているからではない。優劣でドライに愛情が決まるわけではない。
 おれは、富山県富山市という特徴の薄い地方都市で生まれ育った。若い頃は「全然好きじゃない」と思っていたし、人にもそう言っていたけれども、年をとるにしたがって変わってきたように感じる。若い頃は、子供が親を疎ましく感じるようなものだったのだろうか。今は愛してやまないというほどではないが、懐かしく、好ましく、そしてたまに帰って町を歩くと少々もの悲しい心持ちになる。人に「ここが優れている」と自慢できるようなことはないけれども、心の中で切り捨てられない感じはある。
 子供の側からすると、選ぶことができないという点で、生まれ育った土地も親もよく似ている。