食うことについて

 以前からよくわからなくて、今でも答の出ない問題に、食べ物の好みのうるささというのがある。いわゆる舌の肥えた人というのは、食事に対する評価の基準が他の人よりも高く、厳しいのだろうと思う。それは素晴らしいことのようにも感じられる一方で、いや本当にそうなのだろうかとも思うのだ。悪い言い方をすると、食い物に意地汚いとも言えるんじゃないか。

 おれはあまり大した舌を持っていないから、食べ物の好き嫌いはあるけれども、たいていの食事はまあ、そこそこ満足できる。うまいものを食べると快感は得るけれども、その快感の発動するレベルはかなり低く、また食べたものの微細な味わいもさほど感知できていないと思う。

 舌の肥えた人というのは、平均的な食べ物ではなかなか満足できないのだろうと想像する。食材とか、調理法とか、あるいは雰囲気のようなものも含めて、要求基準が高そうだ。そりゃなんだか不便な話じゃないか、とも思うのである。

 しかし、こう考えるとわからなくなってくる。たとえば、音楽について言えば、おれは結構好みのうるさいほうで、いろいろと嫌いな、見下したくなるような音楽がある。幼稚に感じる音楽も多い。誰かが幼稚な音楽で喜んでいるのを見ると、その人の趣味嗜好も見下したくなる。「バーカ。その程度ので勝手に喜んでろ」という感じだ。我ながら嫌な野郎だが、まあ、そういうふうに思ってしまうわけである。そうして、そういうふうにある程度は音楽のレベルの高下を聞き分けられる自分にそこそこの自信を感じている。食べ物にうるさい人も同じなのであろうか。彼らもまずい食べ物を食べて喜んでいる人を見下しているのであろうか。おれは、音楽の好みのうるさい人を多少の抵抗を交えながらも尊敬しているし、音楽のレベルの高下を聞き分けられることは基本的によいことだと思う。一方で、レベルの低い音楽を不快に感じるのだから不便なようにも思う。食べ物の好みについても同じことが言えるのか。

 音楽の好みと食べ物の好みを一緒にしたくない気持ちも、正直、おれにはどこかある。それは自分が大した舌を持っていないせいもあるし、食べ物についてあれこれ言うのは意地汚いという思い込みがあるせいもある。生理的な欲求を云々することに抵抗があるのかもしれない。おれは性についてあっけらかんとは語れず、あんまり文明化していないのかもしれないが、まあ、食べ物についてあれこれ語ることにも、性ほどではないが、どこか気恥ずかしさが混じる。もしかして変態なのかしら。本屋で料理本を前にして顔を真っ赤にしている間抜けヅラの男を見かけたら、それはたぶん、おれだ。

 一方で、食べ物の好みのレベルが高い人は偉いな、という感じ方もあって、なかなか決着がつかんのよね、この問題。