科学と神の奇蹟

 のっけからややこしい話を繰り出して恐縮だが、科学というのは、蓄積されてきたデータを元に、一定の手続きに従って論理的に考えて経験的に確かめ、あるいは経験的に確かめて論理的に考え、「うむ、これは間違いなかろう」となったことを再びデータとして蓄積していく営みであろうと思う。現在、科学の成果として知られているものは営々と積み重ねられてきた膨大な手続きとデータの蓄積の結果であって、この世に非常に堅固な要塞を築いている。科学の手続きを都合のいいところだけ借用して、蓄積されてきたデータのほうはいい加減に扱って(あるいは無関係なところからソースを持ってきて)、「これこの通り」と人を驚かす類のものは疑似科学と呼ばれ、特に科学側の人から徹底的な糾弾を受ける。

 しかし、科学の要塞を根こそぎひっくり返す大技も世の中にはある。「神の奇蹟」というやつだ。世界が裏表反転するような豪快さがあって、面白い。

 おれが特に好きなのは進化論に対する反論である。「自然界は、神様が七日間のうちに今あるような姿にお創りになったのだ」と主張する人もいて、これを切り崩すのはなかなかに難しい。例えば、動物の形態が少しずつ変化してきていることを示す化石を並べて見せても、「違う。それは神様が七日間のうちに、そういう形の化石としてお創りになったのだ」と主張されたら、根本的な反論はできないだろう。放射性炭素か何かを持ち出して「だって、これは5万年前のものですよ」と言ったとて、「それは最初から『5万年前の化石』として作られたのです」と言い返されたら、それまでである。

 おれも時々、神の奇蹟について考えてみることがある。例えば、密閉した容器に入れた米に虫が湧いたとする。おかしい。開けるときに虫が入るのを見た覚えはない。なぜだ? と思うのだが、「科学的思考」に従えば、そもそも容器に入れる以前に卵が産み付けられたか、それとも容器に隙間があったか、以前に容器を開けたとき虫が入るのを見落としたか、といったところが順当だろう。しかし、もしタッパーウェアに入れた米に対して、神が奇蹟を為されたのだとしたらどうだろう? 雲の上で白ヒゲのお爺さんが杖を振り回し、目に見えない閃光を台所の冷暗所に置いてあるタッパーウェアの内部に向かって放ったのだとしたら? 神の七日間の天地創造に続く新しい生命創造の奇蹟がタッパーウェアの中のササニシキの米粒の隙間で今まさに起きたのだとしたら?

 そんなことを考えてみるのはなかなかに楽しい。ヨッパラって、足元がくねんとなるような快感がある。逆に、シラフの感じでいたい人は「そんなことはありえない」と「科学的思考」に基づいて否定したくなるのだろう。

「神の奇蹟」説の難点は、否定もしきれないが、立証もできない点だ。「こうも考えられる」から「実際にこうだったのだ」までは神の七日間分の隔たりがある。しかし、少なくともおれにとって「神の奇蹟」説は、あくまでアハハハとヨッパラえるところに妙味があるので、立証できなくとも問題はない。というか、立証できないところがミソである。

 なお、今日のこの文章も、つい三十秒ほど前に神の奇蹟によって突如としてこの世に現出した。おれは一文字たりとも書いていない。