ダダ漏れはなぜダダ漏れなのか

 最近、「ダダ漏れ」という言葉が気に入っている。個人情報が漏れまくること、あるいは講演会やシンポジウムなど閉鎖的な空間で行っているイベントの内容がTwitterUstreamなどを通じてリアルタイムでネットに漏れることをいう。
 気に入っているといったって、もちろんダダ漏れという言葉が好きで好きでたまらないというわけではなく(そんなやつはまずいないだろう)、ダダ漏れという表現が生まれてきた経緯に興味を覚えるのである。

 ダダ漏れは「ダダ漏れ」という響きだからとめどもなく、いかんともしがたく漏れ続けるふうに感じられるのであって、これが「ササ漏れ」でも「ユユ漏れ」でも感じは出ない。「ダダ」という力強い響きが効いているのだろう。力強い、ノイズの混じった響きのある濁音で比べてみても(日本語ではなぜノイズ調の音が濁音にまとまっているのだろう?)、

ガガ漏れ ギギ漏れ ググ漏れ ゲゲ漏れ ゴゴ漏れ ザザ漏れ ジジ漏れ ズズ漏れ ゼゼ漏れ ゾゾ漏れ ダダ漏れ ヂヂ漏れ ヅヅ漏れ デデ漏れ ドド漏れ ババ漏れ ビビ漏れ ブブ漏れ ベベ漏れ ボボ漏れ

 と、「ダダ漏れ」がやはり一頭地を抜いてだばだば漏れ漏れ感を表しているように感じる。他によさそうなものを挙げると、「ズズ漏れ」「ヅヅ漏れ」「デデ漏れ」「ドド漏れ」と、なぜかダ行のものが多い。「ババ漏れ」は特に関西圏では取り返しのつかない感があるし、「ボボ漏れ」では地域差があるとはいえ何と言っていいのかいやその。

 19世紀終わりから20世紀初め頃にソシュールという言語学の偉い先生がいた。現代の記号論構造主義の先鞭をつけた人らしいんだが、おれは馬鹿なので例によってあまりちゃんとは語れない。しかし、馬鹿なりに知っている範囲では、この人が、言葉の音と意味の結びつきに必然性はない、とおっしゃっている(らしい)。例えば、あのワンワン吠える元狼の一群の動物を日本語では「犬」と呼ぶのに英語では「dog」と全然別の呼び方をする。言葉の音と意味の結びつきは恣意的なのだ、音と意味は自在勝手に結びついてしまったのだ、ということをソシュールは唱えた(らしい)。

 しかし、「ダダ漏れ」は「ダダ」という音だからとめどもなく、いかんともしがたい漏れ漏れ感があるのであって、音と意味に関連がありそうな気がする。「ダダ」が擬音語もしくは擬態語に近いからだろうか。しかし、例えば先の犬の「ワンワン」だって英語なら「バウワウ」だ。同じ意味の擬音語だからといって同じ音にはならない。してみると、「ダダ」は日本語の擬音語・擬態語世界にからめとられた中から出てきた言い回し・表現・音感覚なのだろうか。日本語を解さない人に「『ダダ漏れ』と『メメ漏れ』ではどっちがダダ漏れっぽいですか」と(もちろんその人の言語で)訊ねたら、どのくらいの割合で「ダダ漏れ」を選ぶのであろうか?

 などということを考え出すと次々にいろいろな考えが頭に浮かんで、夜も眠れない。ので、最近は昼に寝ることにしている。