メディアの習慣性

 しばらく帰省していて、Twitterの類をほとんど見ないでいた。普段はちょっと時間ができるたびに覗かずにいられない感じでいるのだが、見ないでいるとそれはそれで気にならなくなるものである。

 今はTwitterと、Lang-8という語学学習者向けのソーシャルメディアをやっているが、ソーシャルメディアにはかなり習慣性があるようだ。一度やりだすと、アイスクリームを作っている子供が冷凍庫をひっきりなしに開けて見てみるみたいに、たいがいは大して変化もないのに覗いてしまう。昔、Mixiをやっているときもそう感じた。Mixiをやらなくなってだいぶ経つが、今ではどうでもいいや、という感じである。

 何なのだろうか、この習慣性、というか、いっそ中毒性と呼びたいくらいの強い磁力は。

 いや、ソーシャルメディアに限らないのかもしれない。京都の町なかでは、よく携帯を操りながら自転車に乗っているワカゾー、馬鹿学生を見かける。危ないったらありゃしないのだが(ワカゾーのほうの身を案じているわけではない)、そこまで惹きつけるものがあるのだろう(携帯でソーシャルメディアをやっているのかもしれないが)。ゲームにも似たところがある。
 あるいは、家ではテレビをつけないでいられないという人もいるが、あれもソーシャルメディアの習慣性と似たものではなかろうか。もっと飛躍すると、オバサンなんかの近所の噂話なんかも案外と同じ種類の習慣性かもしれない。

 何なのだろうか。間が持たないということなのか。もしそうなら、なぜ間が持たなくなってきているのか。