鈴木春信がよい

 先日、浮世絵の美人画について書くためにWikimedia Commonsをつらつら見ていて、鈴木春信の絵はいいなあ、と思った。

 鈴木春信は江戸中期の絵師。錦絵、つまり木版画の多色刷りの普及にはこの人の力が大きかったそうだ。おれはそもそも浮世絵についてよく知らず、春信についてはなよっとした絵柄を何となく知っているだけだったが、見てみると、とても魅力的なんである。

 春信の絵に出てくる人物はたいていひょろ長い。ゆらゆらと風に揺れそうである。

 茶屋で客の相手に疲れた遊妓が夜風にでもあたりにふと縁に出たところであろうか。体のラインが長細いSの字を描いて、ゆらり、という具合で、「柳腰」という感覚がよくわかる。当時の男どもはこういう絵を見て、クゥーッ、たまらんねえ、などと思ったのだろうか。爾来二百五十年ばかり経った今のおれにも、そのたまらん感じはわかる。

 この遊妓の絵もそうなのだが、春信の絵は映画の1シーンのようにストーリーを想像させるものが多い。ある時間軸の中の状況を切り取ったふうなのだ。

 もうひとつ、春信の絵で特徴的というか、強い印象の残るのが「なよ男」の存在である。

 右の人物、現代の時代劇的感覚・知識からすると女みたいであるが、男である。当時の若い男はこんな感じの髷を結って、こんな女性っぽい着物を着ていたらしい(若い男がどのくらいの比率でそういう格好をしていたのかは知らない)。中性的というより、いっそこれは女性的である。「優男」という言葉が文字通りのふうに感じられる。
 三味線を女にバチで弾かせて、自分は弦を押さえて、「ほうら、そこ」「うぅん、わかんない」「あはは、もう一回ね」なんて、バカヤロー。いちゃつき、という状況を実に見事に表現していると思うのである。

 ほとんど同じ趣向の別の絵もある。

 こっちのほうがもうちょっと初々しく、お互いの、特に女のほうのどぎまぎ感、うれしはずかし感が伝わってくる。
 次の絵は遊郭だろう。なよ男がすっかり女となじんでいる。ふとんの隠微なにおいと温かさまで伝わってきそうである。

 落語なら大店の若旦那というところであろうか。「明烏」を思い出す。

 見た範囲でおれが一番に押したいなよ男はこいつだ。

 見事ななよっぷりだ。なよりすぎて、左足が変なふうになっている。両親がこの様を見たら、「こんなにするために育てたのではない!」と嘆き悲しみ、ご先祖様に申し訳なく思うに違いない。

 ところで、この間も描いたが、春信の絵はいわゆる浮世絵の美人画とはちょっと感じが違っている。(歌麿に代表されるような)典型的な美人画より少し前の世代ということもあるのだろう。一方で、何となく中国の小説の挿絵にも似ているように思う。次の絵は「金瓶梅」の明末頃の挿絵だ(色男の西門慶が人妻の潘金蓮と密通するところ)。


 春信の絵は状況を切り取っているようなふうが小説の挿絵に似ているように思う。顔の感じも、シンプルな線でひょい、ひょいと描くところが中国の挿絵に通じる。中国の挿絵と後の浮世絵美人画の中間くらいの感じだ。金瓶梅はわからないが、水滸伝は春信の頃に日本に普及したらしいから、春信が中国の挿絵の影響を受けた可能性もあると思う。

 春信より後の時代の浮世絵は永谷園的なものが多く、フジヤマ・ゲイシャ・スシテンプラ風になってしまいそうで、おれはあまり自分の部屋に飾ろうという気にならない。しかし、春信の絵なら、心理的な面白みやきわどさがありながらもくどくなくて、部屋に飾ってもいいかな、と思う。