ロシア社会主義の夢想の跡

 昨日、ロシア構成主義の代表的作家であるグスタフ・クルーツィスの作品をつらつら見ていて、その力強い表現に感心する一方で、砕け散った夢の跡というような一種のもののあはれを覚えた。

 ロシア構成主義というのは、その名のとおり、ロシアでいろいろなものを構成しまくった人々の主義だ。年代的には1910年代から30年頃まで。ロシア革命の勃興から革命的気分の高揚までと抱き合った時代のものである。何をどういうふうに構成しまくったかは例えばクルーツィスの作品を見ればよくわかる。

 クルーツィスの作品の主張はとてもストレートだ。例えば、手を構成しまくった有名なポスター("Everyone to the Re-elections of the Soviet"、「ソビエト改選に向かう皆」)がある。

 社会主義の進展は手=労働者全員の結集によって成し遂げられるというわけである。

 彼のイメージ的主張によれば、よりよい社会は人々の力を結集することによって建設されるのであって、ガンガン働くぜ!

 スポーツだぜ!

 旗だぜ!

 明るい未来だぜ!

 今から考えると、どうしてこういうビジョンを信じられたのか、不思議にも思える。生活の基礎的部分を国家が支給してくれるとなれば、強制されない限りあんまり無理して働こうという気にはならないだろう。労働者が権力を握ると言ったって、調整機構が力を得れば(強制力を得たとき、調整機構は統制機構となる)、労働者対権力機構という図式は変わらない。労働者は権力を握ったように一瞬思えたとしても、その実は他のところに権力が行っただけである……などというのはまあ、あくまで今、答を知っているからこそ言えることだ。後出しじゃんけんである。

 おれはあんまりリクツというものを信用していなくて、その理由の一番はおれの頭が悪いうえに粘りとガッツに欠けるからだが、一方で人間が頭の中だけで考えることなんてたかが知れてるだろう、ということもある。おそらく、ロシア革命の頃には、おれの何倍も頭のよい人々が本気で社会主義を信じたのだろうと思う。労働者が権力を握れば、などと考えたのだろうと思う。しかし、結果的にはあまりうまくいった社会主義の国はないようである。

 いやまあ、だから考えるな、リクツを使うな、ということではもちろんない。リクツにたよらざるを得ないことはたくさんある。そうではなくて、何と言うかな、経験主義的なもの、自分は間違っているんではないかなとか、あるいは、世の中とはそういうものですわい、といった感覚が、歯止めとして重要じゃないかと思うのよね。謙虚さと多少のシニカルさというかな。

 青臭い急進的な議論(頭の中だけのリクツ)というのは、やっぱり、それだけだとあんまりうまくいかないことが多いようだ。クルーツィスは後に逮捕・処刑されたが、その没年には諸説あるらしい。