言語と意識の持ち方

 Lang-8(ランゲート)という語学学習者向けのSNSに参加している。

→ Lang-8

 自分が学んでいる言語で日記を書くと、母語とする人が添削をしてくれる。コメント欄でもいろいろ話し合える、というサイトだ。

 おれも日本語で書かれた文章を添削するんだが、いろいろと面白い発見がある。例えば、日本語学習者がよく顔文字(例えば、^ ^;とか、(^▽^)とか、(T_T)とか、ヽ(`Д´)ノとか)を入れる。もちろん使うかどうかは人によるんだが、使う頻度は日本のネットにおけるそれとあまり変わらないようだ。

 日本語学習者は楽しんで日本の顔文字を使っているようだ。使い方も日本人と変わらず、相手との感情的なクッションとして使うことが多い。例えば、相手に対して否定的意見を書くとき、「そんなことはないですよ。」とだけ書くとちょっと剣呑な感じになる。しかし、「そんなことはないですよ ^ ^」とすると、ご存知の通り、意見には否定的だけどあなたに対して悪意は持っていませんよ、といういささか高度な表現ができる。日本語学習者もそうした効果を理解して使っていることが多いようだ。

 おれが知らないだけかもしれないが、英語の文章では、顔文字を使って相手との感情上の関係をコントロールするというやり方をあまり見かけない。時々、:-)や:)を使うくらいだ。必要ならば、言葉を使って感情上のニュアンスを伝える傾向が強いようだ。

 日本の顔文字は、おそらく、「(笑)」の発展形だろう。英語では「(笑)」にあたる表現をあまり見かけない(lol(laughing out loud)はちょっと違う)。日本の顔文字を使うことで、日本語学習者は日本的な相手との距離の測り方も覚えるようだ。「この書き方だと剣呑だから、顔文字を入れておこう」とか、「ここに顔文字を入れれば悲しいふうに感じていると相手と了解しあえるよね」とか、そういう意識の運び方を見て取れる(追記:英語を母国語とする人によると、彼らも顔文字で感情をやわらげるようなことをやるとのこと。私の無知でした)。

 何が言いたいかというと、使う言語の特徴によって、もしかするとわしら人間の意識の持ち方なんぞ簡単に変わってしまうんじゃないか、わしらはしっかりした自己みたいなものを持っているように何となく思いがちだけれども、使う言語の種類によってそんなものはするりとひっくり返ってしまうんじゃないか、ということだ。

 例えば、日本語学習者も中級から上級くらいになってくると、ぼかすような曖昧な表現や、言葉尻のエッジを弱めるような表現が増えてくる。「〜かもしれません」とか、「ちょっと〜と思いました」とか、その手の表現だ。英語では(日本語学習者は英語を母語としているとは限らないが、おれが多少なりとも理解できる他言語は英語だけなので許してください)、その手の表現を日本語ほど多くは使わない。おそらく日本語学習者は、日本語ではこっちのほうが自然な表現だ、とか、日本語でよく使われる表現だ、とかを学んで使っていくうちに、自分でもだんだんそういうニュアンスに対する意識が鋭くなっていくのだろう。あるいは、敬語の丁寧語・尊敬語・謙譲語なんていうのは少なくとも英語では弱い感覚なので、英語を母語とする日本語学習者は敬語を使おうとするとき、人と人との上下関係について意識するだろう。

 逆におれが英語の文章を書くときには、日本語ではあまり意識しない単数・複数とか、数えられる概念か数えられない概念かとか、あるもの(aがつくもの)なのかそのもの(theがつくもの)なのかとかを嫌でも意識せざるを得なくなってくる。

 ただまあ、本当に意識の持ち方が使う言語次第で変わっているのか、現象的にそういうふうに見えているだけなのかは、見極めがなかなかに難しい。例えば、機械的にでも^ ^;を入れれば、「この人は焦っておるのだ」と読み手の側は自動的に理解してしまうし、「である」ではなく「と思われる」ととりあえず書いておけばエッジをやわらげた表現のように読み手の側が自動的に受け取ってしまうからだ。

 日本語の場合だと、一人称を変えるだけで、文章の見え方は変わる。例えば、「わたしはそう思う」と「ボクはそう思う」と「俺はそう思う」と(さらに言えば)「オレはそう思う」では、文章のニュアンスが全然違う。それにつられて、書く側の意識も変わる。例えば、オレもこんなことを書いてるけど、本当はシリーなロンリーハーツだぜベイビー、小生はそう考えますが、ボクはそんなことないけどね、あはっ、てな具合だ。

 日本語の中だけでもそうである。違う文法構造と、物事に対する違う接し方(単数・複数とか、敬語とか)を備えた別の言語を使えば、意識の持ち方は変わりそうである。本当の自分とか、自分らしくなんて言うけれども、自分なんて割と簡単に変わってしまうもんなんじゃないか。"It's great! What a tremendous man you are!"などと、妙にはっちゃけて書いている自分に気づくとき、おれはふと気恥ずかしさを覚えつつ、そう思うのだ。

p.s. 「言語によって意識の持ち方は変わる」とは言えるかもしれないが、「言語こそが意識の持ち方を規定している」とまで言えるかどうかはわからない。なぜなら、言語的思考の他にも、絵画的思考や音楽的思考というものがあるからだ。あるいは互いの言語がわからなくても幾何学を理解しあえたりもする。言語は、さまざまな思考形式の中で最も分析のしやすいものということなのかもしれない。