働くことと関係性と

 どうも大げさなタイトルで申し訳ない。実際にはそう大した話ではない。

 この頃時々、人とどういう関係を結ぶのか、ということについて抽象的に考えている。

 おれがまだ凄まじい美青年だった大学生の頃、講義の一覧表に「人間関係論」という授業があって、何しろ人間関係についていろいろ思い悩む時期であるからして受けてみた。しかし、実際に先生の話を聞いてみると、工場で生産性をあげるには照明を明るくしたり暗くしたりするとよいというような、プラグマチックといってよいのかどうかわからないが、すこぶる血も涙もない話で、幻滅した。その授業にはすぐ出なくなった。

 それから幾星霜。かつての凄まじい美青年は「無残」という言葉が似つかわしい間抜け面と化して今に至っている。人間関係は、まあ、よかったり悪かったりである。

 この頃はこんなことを考えている。人というのは他の人に何かをしたり、されたりして生きている。例えば、こんなふうにだ。

 まあ、こう単純に「チャーハンを作って洗濯をしてもらうだけの仲」なんてことはめったになくて、家族友人恋人愛人ならばもっといろいろなことをしてあげたりしてもらったりして暮らしているんだが、あくまで説明用の例なのでご勘弁。で、人に「してもらう」ということも重要なんだが、子供でなければ、もう一方の誰かに「してあげる」ということも重要で、それは「見返りをもらえるから」という単純な利害のゆえばかりでなく、充足感とか生きがいとか、そんな大げさなことでなくても、ちょっとした気の張りみたいなことにもつながっている。人の役に立っているとか、わっはっは、こんなことをしてやっておれってえれえなあとか、何とかしてやらんといかんだろとか、あたしがいないとダメなのよあの人はとか、そういうことである。

 仕事というのも関係性で捉えることができる。野菜直売しているお百姓さんなんかだと割と単純な形で表せて、

例えば、お百姓さんとお客の間でこういう関係が成り立つ。しかし、実際にはそんなにドライではなくて、

いろんな話をする、なんていうことが関係性のうえでは大きい。別にその交わした会話が「付加価値」だ、なんていう単純なことではない。もっと人間と人間の関係はぽわぽわ曖昧にできている。

 会社組織になるともっとややこしい。

 会社内でいろんな仕事のやりとりの関係があって、全体としてお客さんに商品を届ける。この図もまためちゃくちゃに単純化していて、実際には仕入先とか、関連のお役所とか、金融方面とか、弁護士のセンセイがどうとか、非常に複雑な関係を結んでいるのだが、ご勘弁。給料方面も図にするのはややこしいのでオミットした。

 で、自分を色で塗るとすると、職場内で人の役に立っているとか、人に何かをしてあげるというのは、

こんなふうに表せる。
 そうして、会社全体として商品を提供して「お客様のお役に立っている」(そういう言い回しにはちょっとそらぞらしい感じもあるけど)わけである。また、会社が商品を提供するのは、自分がお客さん(+その他いろいろの人々)と関係を結ぶことでもある。

 仕事の充足感というのは、こうした職場内で「人に何かをする」、職場の外に対して「人に何かをする」という関係性がうまく確立でき、自分が何らかの役に立っているということを確認できるところに生まれるんだろうと思う。「何言ってやがる、おれは金のためだけに働いてんだ!」という方もいるだろうが、それは楽なようで案外しんどい気もする。「おれは今、いい感じ」とか、「おれには価値がない」とか、そういうあれやこれやも、こういう関係性の問題として捉えられるんじゃないかとにらんでいる。

 続きがあるんだが、ちょっと長くなったので、今日はこれまで。