本意と一己の私

 川本皓嗣「日本詩歌の伝統」の冒頭に、去来(芭蕉の弟子)が同門の風国を叱りつけた話が出てくる。

風国が、「頃日(このごろ)、山寺に晩鐘をきくに、曾て(かつて)さびしからず」というわけで、「晩鐘のさびしからぬ」むねの句を作った。これに対して去来が言うには、「是、殺風景なり。山寺と云ひ、晩鐘と云ひ、さびしき事の頂上なり。しかるを、一端遊興騒動の内に聞きて、さびしからずと云ふは、一己(いっこ)の私(わたくし)なり」。その場の「情」(実感)もさることながら、句はけっして「本意」にそむいてはならぬというのが去来の言い分であって、風国のいう「さびしからぬ」実感を生かすとすれば、せめてこんな風に作ってはどうかといって直したのが、

  夕ぐれは鐘をちからや寺の秋     風国

 この話を初めて読んだとき、正直、去来はこうるさいなあ、と思った。各人やりたいようにやればいいじゃないか、という、信念とは呼べなくとも気分的なものがおれにはあって、風国が晩鐘をさびしくないと思ったんならそれはそれでいいじゃないか、勝手にやればいいんではないの、なぞと思ったものだ。

 今でも各人やりたいようにやれば、という気分はどこかにあるんだが、しかし、この頃はそれと受ける受けないは別の話だと思うようになった。受ける受けないとはちょっと俗っぽい言い方だが、作品として受け入れられるかどうか、売れるかどうか、愛好されるかどうかといったようなことだ。

「本意」ということは、日本の伝統的な表現物では案外と大事な要素かもしれない。例えば、友禅の着物の柄にピーカンの太陽の下で咲き誇る白梅が描かれていたら、「ちょっと面白い」かもしれないが、実際に身につける立場としては着にくい(使いにくい)だろう。

 絵画にしてもそうであって、それぞれの季節・時間帯・場所の組み合わせにはそれぞれの典型的な情感というものが決まっている。そこから踏み出すような絵は(例えば、秋の山寺で晩鐘を打ち鳴らしながら坊主が踊り狂っているとか)、「ちょっと面白い」かもしれないが、購入して床の間にかけるのはためらわれる。まあ、酔狂な遊びとしては成り立つかもしれないが、あくまで酔狂である。価値は一等落ちるだろう。あるいは、美術館で「観客」として数分間楽しむ分にはいいかもしれないが、購入して活用するとしたらなかなか使いにくい。

 本意と自己表現はどういう関係なんだろう。去来は「一己の私なり」と手厳しく責めているが、句には作者名が残り、絵は画家の名で価値が上がり下がりするのだから、作者の個性や創意工夫が卑しめられているわけではないだろう。

 日本画史上の有名な画家達のことを考えると、本意を破るようなことをして名を上げた人はあまりいないように思う。奇策や趣向は結構あるが、本意に逆らうような種類のものをおれはあまり思いつかない(知識の不足かもしれないが)。「こういう情感ってありますよね」「こういう情感をこう表現してみたら結構じゃありませんか」というふうなものが多い。北斎先生はどうかな。本意なんてあんまり気にしていなかった気もするし、あそこまで行ったら何をやっていただいても結構、という感じもする。

 本意、すなわち、季節・場・時間帯の設定から来る普遍性というのは案外と今の我々(とは、日本で生まれ育った者、くらいの範囲)も理解している。むしろそれを理解したうえで俳句を読んだり、絵を見たり、遊んだりしている。本意に逆らうのは、自分のちっぽけな天空の中だけで遊んでいる「一己の私」ということなのかもしれない。日本の美術、工芸、文学、遊びを本意の視点から見直してみると、いろいろ面白いことが引き出せる気もする。

日本詩歌の伝統―七と五の詩学

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