寺は昔の寺ではない - The tera is not the tera used to be.

 奈良の唐招提寺は特に絶景があるわけではないが、浮ついたところのない落ち着いた空気が境内に流れていて、おれは気に入っている。建物は木組みが太く、装飾が少なく、ある意味そっけない感じで、それがいかにも学問の場にふさわしく感じられる。

 ……などと思っていたのだが、創建当時の金堂をCGで再現した作品が東京国立博物館で上映されていて、今とは随分と違った雰囲気であったらしい(おれが見たのは写真だけ。作品自体は見ていない)。

→ TMN&TOPPAN ミュージアムシアター - 唐招提寺

 金堂の修理の際の調査を元にした作品だそうで、内部は極彩色の装飾を施してなかなかに派手である。CG独特のつるんとした質感を差し引いても、今感じる豪壮・荘重・厳粛という感覚とは随分と異なる。

 寺というのは、古いとそれだけでもう何かありがたい感じがする。古い神社もいいが、あっちのほうは年々新たまるべしという感覚もあるから、古ければ古いほどいいというものでもない。朱塗りを塗り替えた神社は、神社らしく感じられる。一方、寺は古いほどいい。柱はすすけ、壁は汚れ、床は黒ずむ。何物もひとつにとどまることはない、滅びないものはないという仏教の教えに通じる感じがする。

 ……などというのは現代に生きているからこそ感じることなのであって、CGによる復元を見ると、天平の頃の寺のありようというのはまた違ったふうであったようだ。当時の人々は、仏教を今の我々にとってのようなものとして見てはいなかったのだろう。朱塗りの柱と極彩色の天井の下で行う法要は、俗な言い方をあえてすれば、ショーとしての派手さがあったろうと想像する。そのうえ、本尊は金ピカで、坊さんは外国人だったり、留学帰りだったりするのだ。

 唐招提寺より古い法隆寺だって、今でこそ神さびて(仏様だが)、厳かに見える。「これこそ日本の源流」という感じだ。しかし、あれが中国新帰朝の最新の建築技術を駆使して斑鳩の里に突如として現出したときには、竪穴式住居の残る景色の中で暮らしていた当時の人々も随分と驚いたことだろうと思う。

 我々が今見ているものは、昔に完成した何かがいろいろあって「今こうなっている」ものなのであって、「昔こうであった」ものではない。考えるとき、その「いろいろあって」のところがスポンと抜け落ちることが往々にしてあり、これは建築に限った話ではないと思うのよね。