正義の確認

 多少ネタバレありですが。

 1992年のアル・パチーノ主演の映画。

 ストーリーの紹介は省いて、最後のほうにある名門高校の学園裁判みたいなところについてだけ書く。

 アメリカの名門高校で、校長のクルマにいたずらする学生を、貧しい奨学生のチャーリーが目撃する。チャーリーは校長から、学生が誰だったかを言えばハーバードに推薦してもよい、言わねば放校すると脅される。全校集会で裁判が行われ、チャーリーは目撃者を明らかにすることを拒否、代理人を買って出た「中佐」(アル・パチーノ)が必殺の大演説を繰り出して、裁判をひっくり返す、という流れだ。

 チャーリーの証言の仕方が特に興味深かった。6月までNHKで「ハーバード白熱授業」という政治哲学の番組をやっていたが、そこでサンデル教授が説明していたカントの正義論に通じるのだ。

 サンデル教授によれば、カントはいかなる場合も嘘は許されないと主張したという。例えば、家に友人がいるときに殺人者がやってきて玄関口で「友達はいるか?」と訪ねたとする。このとき、カント的には、たとえかくまう目的であっても「いない」と嘘をついてはならない。あるいは、プレゼントとしてひどいネクタイをもらったとする。プレゼントしてくれた人に「すばらしいネクタイだ」と言うのは嘘になるからいけない。しかし、「こんなネクタイ見たこともないよ」なら嘘ではないからよい。賢く言い逃れるような言い回しならば、嘘ではないから道徳的に許される(かもしれない)。とまあ、そんなような理屈だった。

 映画の中の学園裁判では、もうひとり目撃者がいる。こやつはまあ、わかりやすい卑怯者であって、裁判官役に当たる校長に「いや、コンタクトを外していたのでよく見えなかった。チャーリーならわかるはずだ」と言う。これは嘘なので、カント的にはNG。その次に校長がチャーリーに「どんな人間だったか」と聞く。チャーリーは一瞬迷った後で「平均的な学生の体型だった」と答える。嘘ではないから、カント的にはオッケーなのだろう。カント的な理屈が少なくとも映画の中では通用しているというところが興味深い。

 その後で先にも書いたアル・パチーノの大演説が始まるのだが、内容については映画の最大の見せ場であるし、書かない。アメリカ映画には、法廷物をはじめとして、土壇場で主人公が一世一代の大演説を繰り出して、正義はどうあるべきか、我々は人間を適正に扱っているのか、自由とは平等とは法とは、この国の成り立ちはそもそも何なのか、ジェファーソンよワシントンよフランクリンよ建国の父達よご照覧アレ、と聴衆を感激させ、大逆転勝利を収める映画が結構ある。「演説物」とでも呼んだらいいのか。日本映画にはあまりそういう大演説を繰り出す映画はないように思う。

 アメリカに住んだことがないから実生活体験としてどうなのかはわからないが、少なくとも映画の中では正義、あるいは国を成り立たせる根本原理みたいなものについての問い直しはよく行われているようだ。映画のテーマとして成り立つくらいには人々が興味を持っているということなのだろう。だからアメリカは素晴らしいと言えるのかどうかはわからない。意地の悪い見方をすれば、常に正義や根本原理を問い直していないともたない国ということなのかもしれないし(いや、知らんけど)。

 今ふと思ったのだが、アメリカ映画に出てくる最後の大演説というのは、日本映画における最後の大立ち回りみたいなものなのかもしれない。向こうではクライマックスで正義の問い直し、組み立て直しを行うが、こちらでは正義は「所与」のものだから安心して悪人ばらをめったやたらに斬り倒す。正義に対する構え方の違いみたいなものが映画のクライマックスにも表れている――とまで書くと、やっぱちょっと飛躍しすぎかな。

 最後に、日米における正義のありようの違いについての弁証法止揚(とかいって、ホントは難しげな言葉を書いてみたかっただけ)についてご紹介。「スターウォーズの効果音を必殺仕事人にしてみた」。最後のほうのやりとりが可笑しい。

追記:そういえば、今日はアメリカの独立記念日なのだった。テーマがアメリカになったのは偶然。