超自然現象と科学と私

 おれの母親は割に霊感のある人で、何度か超自然現象に出くわしている。

 一番よく覚えているのはおれが幼稚園か小学校低学年のときのことで、おれと一緒に庭にいた。突然、母親が立ち上がって、おれの兄に何か起きた気がする、と言い出した。それからまもなく電話が鳴って、兄が交通事故にあったと知らせてきた。今でも思い出すと、不思議である。

 その他にも、火の玉を見たり、夜中に祖母が血を吐いて死にかけたときにぱっと目が覚めたり(もっとも、これは物音のせいかもしれない)、離れたところに住む友人が亡くなるとき妙に虫がまとわりついてきて変に思ったりと、比較的マイルドな体験をいろいろしているという。

 母親の血を受け継いでおれも霊感が強い。やたらと胸騒ぎがしたり、嫌な感じに襲われたりする。ただ惜しいことには、一度としてそれらの当たったためしがない。自分で体験した超自然現象といえば、これは昔書いた覚えがあるが、高校時代に眠っていて体が浮き上がったことが一度あるくらいだ。書き出すと長くなるので、この次にでも書こうと思う。

 さて、超自然現象について科学的態度から「そんなことはありえん」とする人がよくいる。場合によっては憤激したりする。そういう態度については、小林秀雄の言ったことが印象に残っている。「信ずることと考えること」と題した講演の中で話したことだ*1

 かいつまんで言うと、科学というのは測定できるものに対象を限定して調べるという手法をとって発展した。測定できないものは対象としない。だからといって、科学が対象としないものは存在しないと考えるのはおかしいだろう、と、まあ、そんな話だ。

 その通りだと思う。測定できないもの、あるいは測定する方法がまだ見当たらないものだからといって、存在しないと決めつけるのは早すぎる。たとえて言えば、ある人が物差しと秤でいろんなものを測り始めた。壁だの、鍋だの、池だの、山だの、いろんなものを測った。風が吹いてきたが、そいつは物差しと秤では測れないので、存在しないと主張した――というのは明らかにおかしい。風を測る方法をその人がまだ知らないだけである。よく知らないが、科学というのは、いろんなものを測る方法をどんどん見つけていく作業も含むのだと思う。風が測れないなら測れる方法を探す、雷を測れないなら測れる方法を探す。測定できる(証明できるといってもよい)ものの対象をどんどん広げてきたわけだ。そうであればなおさら、測る方法がまだ見つかっていないからといって、あるいは現時点での科学の対象ではないからといって、存在しないとしてしまうのはおかしいことになる。かえって理性に反することになる。

 ただし、科学で測定できないからといって、大喜びでのめりこむのも、変な話だろう。おれの霊感を科学で証明できないからといってやたらとうれしがるのもやっぱりおかしいのである。それは、たま出版的態度であって、娯楽としては楽しいが、あんまり真剣に信じ込んでのめりこむと痛い目にあうだろうと思う。

 超自然現象を否定はしないが、しょせん凡人が解明、会得しようったって無理な話だと思う。少なくともおれについては、手品を見て、そのタネすら見破れない間抜けであるからして、不思議は不思議として、ああ、不思議だねえ、としばらく感心した後は、地べたをのそのそ歩いているのが分相応だと思っている。

*1:小林秀雄の講演はこれ一本ぎりしか持っていないのだが、本で読むよりはるかにわかりやすい。口調はちょっと古今亭志ん生みたいである。