少年少女へのポルノの規制について

 おれは少年少女に対するポルノの規制に賛成だ。

 青少年の健全育成のゆえではない。ポルノを目にしないことが本当に健全育成につながるのか、おれにはわからない。

 そうではなくて、おれは真に少年少女たちのことを考えている。エロというのは、隠されているからこそコーフンするのであり、許されていないものを必死に何とか見ようとするところにスリルと達成したときの幸福があるのだ。

 おれが初めて見たポルノ映画は「残酷女収容所」という外国映画で、萌え出づる春の新芽の中学生のときだ。学校で友達と、そういう映画が上映されているらしい、という話になり、放課後、なるべく大人っぽく見える格好をし、頭を七三に分けて繁華街に向かった。映画館に着くまでドキドキであった。切符売り場では「ダメだよ、キミたちは」とあっという間に看破された。しかしここで諦めてなるものかと残雪をも持ち上げる恐るべき雪国早春の新芽のパワー、友達と相談してプレイガイドでチケットを買うことにした。プレイガイドでは、ハゲた親父に「キミたちにはまだ早いんじゃない〜?」とニヤニヤしながら言われたが、それでも割に簡単に売ってくれた。それを持って、さっきの映画館に再び向かい、イヤな目で見る係員と「チケットがある。買ったんだ。あんたのところは映画を見れない客に金を払わせるのか」などと押し問答して、そのうち係員も面倒くさくなったのか入れてくれた。そうやって見た「残酷女収容所」は、エロというよりグロに近く、たぶん今見たら大した映画ではないと思うが、それでも新芽たちは随分とコーフンした。ちらり覗き見た大人の許されぬ世界であった。

 実にどうも武勇伝にもならぬしょうもない話で申し訳ない。しかし、ああいうしょうもないことでも、許されていないがゆえのコーフンであった。今の少年少女たちにもぜひ体験させてやりたいと思う。

 だいたい、ああいうものというのは日の光にさらしてしまうと実も蓋もない。最初は強烈な刺激に思えるかもしれないが、割にすぐ慣れてしまう(一時のヘアヌード・ブームとその後の廃れ具合を思い起こしてみていただきたい)。漆塗りの器だって、燦燦と照る太陽の下に置いたら確かによく見えはするだろうがさして美しくはないのであって、ほの暗い中に、わずかな明かりを反射する黒光りに得も言われぬ美しさが生まれるのである。ホラーで考えてみてもよい。怪異物の怪というのは、闇にふっと現れるからこそ総毛立つほどに恐ろしいのであって、同じ正体のものが真昼間にビーチパラソル立ち並ぶ海水浴場を走り回ってご覧。拍子抜けするくらい怖くないよ、きっと。エロもホラーも、直接的表現が簡単に目の前に放り出されるというのはあんまり面白くなくて、下手すりゃ、医学的機能的領分におさまってしまう。間接的な状況とか、きわどさとか、ウヒヒヒヒ的な部分があってはじめて興趣というのは高まると思うのだ。

 何が言いたいかというと、少年少女にとっては、そこに何かあるらしいんだが、簡単にはたどり着けない、しかし見たい、何とかしたい、どうしようか、親にも先生にも言えないねぼくたちあたしたち、という状況を作ってあげることが、彼らのコーフンと至福につながると思うのだ。隠微さというのは、大変に結構かつ重要な感覚だと思うのよね。知らずに育つのはかわいそうだし、もったいない。もしかしたら、ある種の日本文化の危機ですらあるかもしれない。