漢文訓読調で語る

 以前から漢文の訓読の調子に興味があって、あれを聞くと、日本で生まれ育った者は、内容が何であれ、ほとんど自動的に厳にして粛、大にして仰たる印象を受け取ってしまう。町の外れで友を見送ろうが、ジジイが湖に出て魚を釣ろうが、柳の川べりの亭で妓女が胡弓を弾こうが、陋屋で故郷を思ってヨヨと泣こうが、みんな厳にして粛、大にして仰、である。

 なんでだろうなあ、と不思議に思っていたのだが、高島俊男の「漱石の夏やすみ」を読んで、何となくわかってきた。高島俊男は漢文訓読調を「千篇一律荘重体」と呼んでいるが、要するにあの「○○ハ××ニシテ△△タリ」というのは、元々漢文の字面を思い出すための符牒みたいなものであったらしい。符牒なんだから、簡にして素たるものがよい、というので、だんだんとああいう口調に煮詰まってきた。ところが、明治以降、漢文教育が廃れてくると、読むほうは素養が不足しているだけにあの口調が随分と立派なものに思えて(いかめしい先生を思い浮かべるような感覚かもしれない)、恐れ入ってしまうようになった。しこうして漢文訓読調を読むと厳ニシテ粛、大ニシテ仰、君知ルヤ千篇一律荘重タリ、というふうに感じてしまうようになったらしい。

 ましかし、ことここに至った以上、あの千篇一律荘重自動化機能を捨てるというのももったいない。いっそ逆用して、あの大仰荘重風味を楽しんだほうが得なんじゃないかとも思う。

 試しに今朝の新聞から、広告を荘重化してみよう。

東ちづる(齢四十九)愛用セリ十九年
快躍タル旦夕出来ス万田酵素
我健康ニ留意シ始ムル頃
知人推挽シテ食ヲ始ム
此ヲ愛シテ老母ニ薦ムレバ
爾来家族雀躍トシテ牛飲馬食ス万田酵素
我嘆ズ多忙タル日日
勇躍此ヲ乗リ切ラント欲ス嗚呼此レ万田酵素

 荘重というより、明治時代の新聞か日露戦争の公報みたいになってしまった。漢文訓読調に見せかけるにもそれなりのテクニックが必要なようである。

 次は、なつかしの宇野鴻一郎風の文章を漢文訓読調に書き換えてみよう。

あ、課長さんがわたしのなかに。あ、あ、すごい! わたし思わずイッちゃいました。


雄大タル課長ノ●●闖入ス我ノ中
勢ヒ五岳ヲ抜ヒテ赤城ヲ掩フ
熊ハ咆エ龍ハ吟ジテ厳泉淫タリ
深林ヲ慄ハシ層嶺ヲ驚カス
身ハ登ル青雲ノ梯
海日ヲ見テ空中天声ヲ聞ク

 うーむ、やはり中国四千年の詞藻の堆積というものをなめてはいかんようである。こういう壮大でパワフルな表現を行おうとしたとき、準備してある言葉の量と幅の点で、日本は中国の足元にも及ばない。

 セックスピストルズの「Anarcy in the UK」。

我ヲ呼ブ勿カレ耶蘇ノ輩ト
我ハ朝ニ叛ズル者ナリ
何ヲ欲スルヤ我知ラズ
如何ニ得可ケンヤ我知リタリ
城ヲ行ク人士ノ破慙ヲ欲シテ
政府ノ顚覆ヲ望ム洛陽ノ東

 さすがに今日の試みは無理やりであった。

漱石の夏やすみ (ちくま文庫)

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