日本文化の称揚とコンプレックスについて

 ではなぜことさらに「日本には他国と比べてもあらゆる面で優れた文化があり〜」などと書くのかというと、おれはコンプレックスの裏返しじゃないかと睨んでいる。

 クロフネ以来、日本には海外、特に西洋から圧倒的にヤラレテイル感というのがあり、それがコンプレックスになっていると思う。しかし、一方で「負けてたまるか、ニッポン男児」という悔しさと気概もあって、何かないかと探してみたら、京都江戸方面に代表されるような「優れた日本文化」みたいなものを発見するのである。

 これはおれ自身体験したことのある感覚で、書くのが少々恥ずかしいんだが、二十代の頃、「日本人として」とか、「日本の文化という視点からすると」なんぞとやたらと考えた時期があった。きっかけは仕事でヨーロッパに行ったときで、まわりは金髪碧眼長身長足の人々だった。デザイン関係の仕事であったから、いろいろと優れた物にも接した。言葉が大してできず、石造りの町並みに立つ自分が不似合いに感じられてしょうがなかった。同じく街で見かける日本人観光客が間抜け面で、浮いて見えてしょうがなかった(申し訳ない)。嫌でも東亜の黄肌短足眼鏡出歯人であることを意識せざるを得なかったのである。でもって、悔しさのあまり故国(たかだか旅行だったが)を振り返ると、おおそこには浮世絵歌舞伎屏風掛軸陶磁器茶の湯の世界があるではないか! クロサワとオヅがいるではないか! 幸いなことには現地の人もそういうものを称揚してくれる。しこうして、ホームパーティなんかに呼ばれると、ろくすっぽ知りもしない日本の素晴らしい文化のあれやこれやについて語ってしまうなんぞという恥知らずな行為に陥ってしまったのである。いやー、面目ない。

 ・・・・・・というのはおれの体験だが、日本で生まれ育った人が「日本の優れた文化」を称揚するココロというのも、そんなコンプレックスの裏返しの場合が多いように感じる。そうでなければ、どっちの文化が優れているなんて話を声高にする必要はないと思うんだが。

 もちろん、日本には優れたものがいろいろある。そうしたものは、それぞれ愛でて、称揚すればよいと思う。総論にして他国の文化と優劣を断じるなんて、空しいうえに、子どもっぽい。