例によって「何様?」と問われれば「オレ様だ」と答えるほかないようなことを書くんだが、簡単に「みんな」とまとめてしまうやつがいる。

 たとえば、例の「みんなの党」なんだが、あの「みんな」には日本共産党幸福実現党全国郵便局長会の人々も含むんだろうか。「みんな」という言葉は、どうもそういういい加減さというか、きちんと個々のことを見ていない雑さがあって、好きになれない。ちゃんと人それぞれのことを考えていないんじゃないかとすら思う。まあ、政党名なんて単なる符牒のようなものだという考え方もあるが。

 雑ということでいえば、「民衆」「大衆」「庶民」という言葉もどうかとしばしば思う。「民衆」とまとめられる人々の中にもいろいろいるわけで、利害も、生活手段も、好みも、流儀もばらんばらんであろう。歴史研究では、古い時代の場合、上流階級や知識階級以外の資料が不足していることもあって、「民衆」とまとめざるを得ないこともあるだろう。しかし、近世以降については「民衆」というまとめ方は大くくりすぎ、雑と言わざるを得ない。敗戦以後、「民衆」という言葉には正義のにおいがくっつくから、なお始末が悪い。

「〜人は」というくくり方もまた気をつけたほうがよいと思う。確かに民族によって習慣や行動パターンの傾向の違いはある。それらについて語るのはいい。しかし、得てして、自分の出会った、あるいは見かけただけのごく少数の人の印象を元に(下手すりゃ伝聞情報だけで)、「○○人は○○だ」なんぞと結論づけてしまうことが往々にしてあり、雑に過ぎると思う。おれは、シャイで女の子に声のかけられないイタリア人だって、きっといると思うぞ。

「我々」「私達」というまとめ方も、しばしば雑になる。「私達は日本のものづくりの文化を見直すべきなのではないでしょうか」って、誰ですか、その私達とは。おれもこの日記でしばしばそんな雑な言い方をしてしまうんだが、できるだけその「我々」「私達」がどのくらいの範囲を指すのか、わかるように心がけてはいる。

 くくるのは結構だが、くくるんなら範囲と妥当性をまずは考えたらどうかと思うのよね。