頭の音楽、胸の音楽、腹の音楽

 おれは1966年の生まれだが、同世代の人間と十代の頃の音楽の話をしても今イチ話が合わない。

 たとえば、中学の頃、YMOにハマった人は多いらしく、今でも坂本龍一を崇拝している人もいる。その崇拝の度合いはちょっと驚くぐらいだ(大きなお世話か)。おれはYMOがピンと来なかった。初期と終わりの頃のポップな曲に好きなものもあったが、ハマることはなかった。少し前に聞きなおしてみたが、やはりよくわからなかった。チューリップとかオフコースを好きだったやつも大勢いるが、これまた話が合わない。

 おれが当時好きだったのはウェザー・リポートで、当時(1980年頃)は彼らが最もポップかつ勢いのあった頃じゃないかと思う。ジャコ・パストリアスが最高にイカしていた。ウェイン・ショーターのサックスの響きが美しかった。ジョー・ザビヌルはややこしいコードできれいな曲を書いていた。

 なぜ同世代の人と好みが合わないのかと考えてみたんだが(おれがへそ曲がりだからという理由は置いといて)、もしかしたら「頭」と「胸」にだけ来る音楽があんまり好きじゃなかったのでは、と思う。

「頭」「胸」に来る、というのは「J-POP進化論―『ヨサホイ節』から『Automatic』へ」という本に佐藤良明という人が書いていた話だ。今手元にないのでウロ覚えで書くのだが、音楽には「頭」「胸」「腹」「腰」に来るものがある。どういうものがどこの部位に来るのかは民族によって異なる。近代化以降の日本人はヨーロッパ系の「頭」「胸」に来る音楽を追い求めてきたが、そこにいつのまにやら伝統的な音階が入り込んでしまう。それは「腹」に来る要素がほしくなるからではないか。アメリカの黒人音楽も「腹」に来る要素が多く、最近(本出版当時の)の音楽は「頭」「胸」に来るヨーロッパ系の音楽と、「腹」に来る日本の伝統的音階とアメリカの黒人音楽の折衷みたいなものが多い――というような内容だったと思う。

J-POP進化論―「ヨサホイ節」から「Automatic」へ (平凡社新書 (008))

J-POP進化論―「ヨサホイ節」から「Automatic」へ (平凡社新書 (008))

 その伝で言うと、YMOは典型的な「頭」と「胸」に来る音楽で、なかんずく「頭」に来る(激昂するわけではない)。チューリップやオフコースは「胸」に来る音楽だろう。音階の面では演歌っぽさもあるから「腹」に来るところがあるが、リズムは軽い。

 ウェザー・リポートも今聞くと随分と軽いし、「頭」「胸」に来る部分が大きいが、YMOに比べればだいぶ「腹」「腰」に来るだろう。それ以降の自分の好みを考えると、おれは「腹」や「腰」に来る部分がないと物足りなく感じるのかもしれない。

 最近上海万博の件で有名になった例の歌は、典型的な「胸」に来る曲だろう。おれは、ああいう「みんなで元気にがんばろう」(「ミン・ゲン・カン・ソング」と呼んでいる)調の歌を小馬鹿にしているが(いっそ市役所ソングと呼んでやりたい)、支持する人がいるのはわかる。まあ、みんなで元気にがんばっていただきたい。なるべく別々のところで生きていこう。