現代の悲恋物語について

 一昨日、ひさびさに文楽を見てきて考えたのだが、現代を舞台にすると悲恋物語というのは結構書きにくくなっているのではないかと思う。いや、おれはどちらかというと愛だ恋だチューだという物語に関心がないほうなので、いささかリクツになってしまうんだが。

 悲恋物語というのは、たいてい、恋する男女がいて、ふたりの間に障害が立ちはだかっている。でもってその障害を乗り越えようとして寸前で倒れ伏したり分け隔てられたりして、ああ哀れなり切ないなりと観客がヨヨと涙にかきくれるのが王道パターンだと思う。

 時代設定を昔にとれば、ふたりの間を隔てる障害をいろいろ設定しやすい。「妹背山婦女庭訓」や「ロミオとジュリエット」のように対立する家の息子と娘というのもあるだろうし、身分違いの恋というのもある。離ればなれて距離の壁というのも得心いきやすい。

 しかし、舞台が現代となると、そうしたものは難度の高い障害となりづらい。対立する家という設定は昔ほど説得力がないし、たとえ対立する勢力があっても(暴力団とマル暴とか)、駆け落ちしてアルバイトでもすれば普通に生きていける。

 身分違いにも昔ほど絶対的なものは少ないし、存在するものはマスを相手にする場合いささか描きにくい。皇室方面は畏れ多くて描くにはガッツがいるし、被差別方面もまたガッツがいる。あとは隠微な差別が残る東アジア方面であろうか。

 距離の壁については何せ飛行機と新幹線があるから、ほとんどお話にならない。「北海道・音威子府(おといねっぷ)と沖縄宮古島の城辺(ぐすくべ)に隔たれた恋人たちの悲恋!」といっても、あんまりヨヨと涙にかきくれさせてくれる感じはしない。

 そうすると、悲恋物語を仕立てるためには別種の障害を持ってくる必要が出てくる。現代の恋愛方面でいまだ社会の壁が高いものに同性愛があるが、これを「美しい」ドラマに仕立てるのはなかなか大変だろう。下手をすると見る側の忌避する心理のほうが強くなってしまう。悲恋物語が成功するには見る側の共感が絶対に必要だから、上手な処理が必要になる(ただし、同性愛をうまく障害として使っている物語はある)。

 あとは現代でもやはり克服できない障害として「死」は大きく、しこうして余命いくらだかの花嫁なんていうのが感動作と銘打って出てくるのだろう(まあ、実際のお嫁さんというのはたいがい「余命六十年の花嫁」であって、現実問題としてははなはだ生命力を持っており、慶賀というか行く末恐ろしいというか、いやその、なのであるが)。

 あとは何だろう。年齢の壁か。爺さんと少女とか。下手すればロリコンで片付けられるので、上手なあつかい方が必要になるだろう。宗教の壁というのは国によっては絶対的なものがあるが、日本は割りにおおらかで、ドラマになりにくい。浄土真宗日蓮宗の恋ではドラマになりそうにない。怪我、不具合というのは障害としてありえるかな。ホーキング博士と少女の恋、とか。

 不倫が、現実のものは女性週刊誌方面で叩かれながら、物語のうえでは美しく語られるのは、それが現代において描きやすい恋人達と障害の物語だからなのだろう。