漢語の出自

 昨日、日本語の中の漢語は、言葉の指し示す対象の範囲をくっきり区切る印象がある、論理的に対象を把握したいときに多用される、というようなことを書いた。たとえば、数学の問題によくある「円の中心から直線を引く」には円、中心、直線という3つの漢語が含まれるが、これらを和語に代えて「丸のまんなかからまっすぐな筋を引く」とすると、どうもぼやっとした印象になってしまう。辞書的な意味では行けるはずなのだが、何かこう、そぐわない感じになる。

 これは和語を使った文が論理的かどうかというのとはちょっと別の話で、言葉から受ける印象の問題である。「学術・思想・論理方面は漢語(および外来語)!」という刷り込みが我々(とはつまり日本語ネイティブの人々)にあるんだろうと思う。

 考えてみれば、漢語というのは遣隋使やら遣唐使やらの頃から順次中国より輸入された言葉(およびそれらをまねて日本で作られた言葉)で、もっぱら仏典などの思想・学術用語として、あるいは律令制のような制度や、建築などの技術を紹介するための用語として用いられてきたのだろう。近世に入ってからは儒学があるし、幕末以降は外国から新しい概念を輸入するにあたって、漢語の手法に基づく訳語が大量に作られた(物理学とか、鉄道とか、交響曲とか、例は数限りない)。元々、漢語の多くは思想・学術・技術用語であって、それが少しずつ他の領域、たとえば、日常会話に浸透してきたんではないかと思う。

 そうした出自は、今の日本語を使う我々も受け継いでいて、思想・学術・技術には自然、漢語を多く使う。漢語でないと表現できない概念が多いという理由が一番だが(たとえば、「蓋然性」を和語で言い換えるのは大変だろう)、言葉の感覚として和語があわあわしすぎているため、思想・学術・技術方面を和語で語るとたよりなく感じられるせいもあると思う。たとえば、「宇宙」を「あめつち」と呼ぶのも何かしっくりこないし、「宇宙飛行士」を「あめつちとびのもの」では忍法帖になってしまう。思想・学術・技術方面の話に「合う/そぐわない」という感覚も言葉を選ぶ際に働いているのである。

 逆に、思想方面の話が好きな学生なんかで、やたらと漢語で日常会話をするやつがいて、まわりからはちょっと浮いたふうになる。日常会話には和語が向くようだ。

 漢語は本来、思想・学術・技術用語、和語は日常用語・情緒表現用、とまで言い切るとちょっと行き過ぎだが、まあ、そういう分布はあるように思う。