和語と漢語の区切り方

 まだ自分のなかでもこなれていなくて上手く説明できるかどうかわからないのだが、まあ、書いてみる。

 思想方面の言葉遣いというのがあって、昔からわたしは苦手としている。読んでもピンと来ないし、身のうちに入ってくる感じがしない。たとえば、こんなふうなやつだ。

この作品の内的世界は親族構造からの逃走、及び頻出する固着性という二つの交錯する線上で捉えることも可能だ。こうした言説の切り拓く意味地平は、しかしながら、一般に想起されるようなアンビバレントな関係性とは大いに異なり、その表層には記号論的な――シニフィアンシニフィエが象徴的に意味するところの――解釈論とは相互に矛盾性を露呈するような、極めて脆弱な間テキスト性を志向する危険性を胚胎する。問題が、デ・フォルチュールの言うところの“身体性の消失点”にあることは明瞭である。“悪とは何か”という、いわば根源的なトポスの不在による脱構築性の再演は、いわば近代の劣悪なパロディとしてしか機能し得ず……

 今、適当に書いたので、意味するところはめちゃくちゃである。ま、「この手の文章」ということなんだが、読むと「あ、おれには無理」と思うし、無理して読んでも途中で脳みそが止まってしまう。泥沼にクルマを「えーい!」と突っ込んだら、案の定、前にも後ろにも進めなくなったような具合である。

 基本的にはわたしが馬鹿のうえに努力しないからいけないのだが、いくらかは思うこともある。

 ひとつは言葉の大仰さである。思想方面の言葉、というより、日本語の中の漢語の性質だと思うのだが、漢語というのはなぜだか大仰に響く。針小棒大、大言壮語、怒髪衝天、永世名人、自分で書いていてなんだかよくわからないが、まあ、ちょっとしたことを述べても大仰になる。そのせいで語ろうとする対象の肌ざわりみたいなものから離れてしまって、ピンと来なくなってしまう気がするのだ。「金がなかったのでおかずはコロッケ」という話が、いつのまにやら格差社会における植物性副食の摂取、となってしまうような、大仰さ、ズレ。

 もうひとつ、物事について、和語的な捉え方と漢語的な捉え方があるように思う。

 漢語というのは指し示す対象をビシッと捉える印象がある。輪郭線をくっきり取って、ここからこっちは対象、ここからあっちは対象外と、明確に区切る。アクリル絵の具のように色の範囲が明瞭というかな。そうした言葉で語ると、幾何学のように点や線を明確に結んで物事を把握する具合になりやすい。構造は明確になるんだが、余計なものを取り払った分、割り切れないもやもやした部分、肌合いなんかは抜け落ちやすい。

 漢語がアクリル絵の具とするなら、和語は水彩絵の具か墨で、しかも水でだいぶ溶いたもののように、筆を紙に載せるとぼわっと広がる。何やらあわあわしている。対象の中心やら軸やらがどこにあるんだか曖昧で、そうした言葉を重ねることで全体として模様ができるような具合である。だから、西洋の学問的な論述や、幾何学的な物事の把握の仕方には、あまり向かない気がする。数学だって「円の中心から直線を引き」だからいいのであって、「丸のまんなかからまっすぐなすじを引き」だと、少なくとも印象のうえでは、あんまり「論理的」という感じがしない。

 そんなこんなで、思想的な言葉として漢語やら外来語やらをまくし立てると、語っている対象の肌合いみたいなものが抜け落ちる気がするのだ。論理的には把握しやすいんだろうけど。いや、肌合いみたいな捉えにくいものを省いて、対象を論理的に捉えたいから漢語やら外来語やらを使うのだろうけど。

 以上は、あくまで日本語の中の漢語と和語の話。中国語の中の漢語は、それはそれであわあわしたものを伝えられるんだろうと思う。たとえば、中国語のポルノ小説とかエロ話とかは、別に対象を論理的/幾何学的に把握しようという試みではないだろう。