パッキンがゆるむ

 人間の体というのはよくできておるなあ、とつねづね感心しているのだが、そのひとつに弁の調整機能というのがある。

 人体にはあちこちに弁があって、この開け閉めによって人間は生命活動および社会活動を維持している。たとえば、汗の出る出ないもそうだし、食事と呼吸の両立も気管支の弁の調整による(失敗するとむせるわけである)。あるいは、大小便方面もそう、消化液方面もそう、心臓が血液を送りだすしくみもそう。人体は弁のかたまりともいえる。

 でもって、年をとると、弁の調整がだんだんとうまくいかなくなってくるようだ。ありていにいうと、ふるい水道の蛇口みたいにパッキンがゆるんでくるのである。老人用オムツの市場なんかはそれによって成り立っている。若いひとの基準からすれば我慢ができないということになるんだろうが、まあ、いかんともしがたい。

 パッキンのゆるみは肉体だけでなく、精神もまたそうのようだ。立ちあがるとき、つい「ヨ」なんぞと口にしてしまうし、ソファに腰をおろすとハー、と息をついてしまう(パッキンの問題というより、疲れの問題かもしらんが)。あるいは、独り言が多くなる。思っていることがつい口に出てしまう。テレビを見ながらアラララ、などと言ってしまう。口のパッキンがゆるむのである。より正確にいえば、脳の中の言葉を発する部分のパッキンがゆるんでくるのだと思う。

 まあ、しかし、精神のほうのパッキンがゆるむことについては悪いことばかりではなくて、人と人のあいだの垣根を低くするようなところもある。簡単にいうと、あまり気がねしなくなるのだ。物事が気楽になってくる。精神が横着こいてくる。

 若いひとよ、馬鹿にしてんのも今のうちだよ。いずれは行く道たどる道、全ての道は老婆に通ずだ。わたしはジジイの道への旅の途中だが。