あざとい読点

 読点というのは「、」のことで、主に2つの使い方がなされるようだ。

 1つは文の途中で意味的な区切りを明確にする用法。最初に記した文章を例にすると、

読点というのは「、」のことだ。主に2つの使い方がなされるようだ。

読点というのは「、」のことで、主に2つの使い方がなされるようだ。

 というふうに、2つの文が合わさった文(重文)なので、読点で切れ目を明示すると読みやすくなる。

 読点の打ち方を変えると、一瞬、頭が混乱して、読みにくくなる。

読点というのは、「、」のことで主に、2つの使い方がなされるようだ。

 日本では学校で作文教育がちゃんとなされていないせいか、テキトーに読点を打っている人が多いようだ。何となく打ってしまうと読む人が困るので、気を使ったほうがよいと思う。

 もうひとつは呼吸としての読点だ。「、」があると、読んでいてそこで一呼吸置くことになる。これを利用して、文章にリズムを生んだり情感を覚えさせたりするというテクニックがある。

 たとえば、推理小説にこんな文があったとしよう。

思わぬ犯人だった。

 これだとすらっと読んでしまうが、

思わぬ、犯人だった。

 とすると、「思わぬ」の後で一呼吸入れるので、息を呑んだふうになり、「思わぬ」という感覚が増幅される。言葉の美しさや面白さで遊ぶという意味では詩的な用法といえるかもしれない。

 コピーライティングの分野ではこの用法が多用される。たとえば、

もう一度恋をしてみよう。

 というコピーがあったとして(今、いかにもコピー風なものとしてテキトーに作った)、

もう一度、恋をしてみよう。

 なら、すんなりと読める。逆に、すんなり読めすぎて、ひっかかりが少ない。そこでしばしば、

もう一度、恋を、してみよう。

 と、「恋を」の後に読点を打つ。呼吸がやたらと入るので、肉感的なふうにはなる。

 しかし、わたしの感覚ではあざとい気がする。しゃらくさい。コピーを単純な自己表現と勘違いして、あまり機能しない自己満足的なコピーを作る輩にこの手の読点の打ち方が多い。いっそ、

自己満足の、コピー、売ります。

 とそやつらを宣伝してやりたいくらいだ。

 皆さんも読点の打ち方に注目してコピーを見てみると、面白いかもしれない。「わざとらしいなあ」と感じるものが、たくさん、あります、よ。