土地をほめる

 さほど親しくない人と話すとき、しばしば生まれ育った土地の話から、名物名産名勝名所の話題になる。一種のコミュニケーションの型なのだろう。

 わたしは富山県富山市で生まれ育った。富山を愛している方には申し訳ないのだが、どこにでもありそうな地方都市だし、文化的にこれというものもなく、名所もない。ゆえに、「富山の生まれです」と言うと、相手もほめるものが他に思い当たらないのだろう、十中八九は魚をほめられる。

「生まれはどちらですか」
「富山です」
「富山のどちらですか」
富山市です」
「魚がおいしいですね」

 これ、困るのだ。確かにたまに帰って刺身を食べるとうまいと感じるが、といって魚を自慢するのもなんだか間抜けである(きゃつら、勝手にそこらへんを泳いでいるだけである)。結果として、「おいしいですねえ。うん、まあ、あははは」と会話が変なふうにねじ切れてしまう。まあ、わたしがお国自慢をあまり好まないせいかもしれないが。

 しかしまあ、富山に限らず、相手の土地をほめるというのは案外に難しい。変にズレてしまうことが結構ある。たとえば、静岡出身の人に対して富士山をほめるというのはどうなのだろう。

「生まれはどちらですか」
「静岡です」
「富士山がきれいですね」
「はい、きれいです」

 これではまるで中学の英語の教科書である。あるいは、「浜松の出身なので、富士山はあまり見えません」と言われることだってありえる。

「生まれはどちらですか」
「青森です」
ねぶた祭りがありますね」
「はい」

「生まれはどちらですか」
「島根です」
出雲大社は大きいですね」
「はい」

「生まれはどちらですか」
「大阪です」
「吉本の本場ですね」
「だからどうした、馬鹿にしとんのかこのボケが!」

 その土地について思いついた何かをただ挙げればよいというものではない。会話というのは生命があるものだから、広げやすい言い方が肝要なんだろう。富山にだって、魚の嫌いな人はいる。鹿児島出身だからといって、誰もが桜島を見て育ったわけではない。