タクシードライバー

 マーチン・スコセッシ監督、ロバート・デニーロ主演の1976年の映画。

 とても優れた映画だと思うのだけれども、この作品についての論評を読むと釈然としないことが結構ある。たとえば、上でリンクを張ったAmazonのDVD紹介文にこう書いてある。

ベトナム帰りの青年トラヴィスロバート・デ・ニーロが演じ、世界の不浄さへのいらだちを見事に表現した。

 同じくAmazonから、キネマ旬報社のデータベースにあるという紹介文。

社会の不浄に憤りを感じた帰還兵・トラヴィスは無謀ともいえるある計画を実行する。

 違うと思うのよね。以下、ネタばれありです。

 まず軽いところから言うと、主人公のトラヴィスベトナム帰還兵であるかどうかはわからない。タクシー会社に職を求める際、そう自己申告しただけである。嘘である可能性もあり、そう考えてみたほうが映画の味わいはより深くなる。なぜなら、トラヴィスはヒーローではなくて、あくまで「ヒーロー願望」の男だからだ。

 そして、こちらのほうがより大きな問題なのだが、トラヴィスは社会の不浄に怒りを感じているわけではなく、おそらくは自分の不当な取り扱われ方に怒りを感じている。ウルトラ自己中心的な男なのである。

 トラヴィスは極端に内気な男で、うまく周囲と人間関係を結ぶことができない。女性をデートに誘っても(彼にすれば大変な勇気がいったろう)、どうデートすればいいかわからず、ポルノ映画館に連れていって嫌われてしまう。内気な一方で自尊心が非常に高いので、「おれはこんな惨めな男ではないはずだ」とヒーロー願望を膨らませる。そうして、銃の練習を始める。鏡に向かって銃さばきをしてみせるシーンは、彼が天然のヒーローではなく、ヒーローとして見られたい男であることを如実に示している。勘違い男なのである。ヒーローは正義を為さねばならないから、とりあえず大統領候補を狙ってみる。失敗したので、少女売春をやっているヒモを射殺する。「誰でもよかった」のである。

 彼は世界の不浄さに怒りを覚えたから挙に出たわけではなくて、世界の不浄さに怒りを覚えている人間と世の中から見られたかった。そして、自分は世界の不浄さに怒りを覚えている人間だと自分で自分に信じ込ませることに成功した。主人公がそういう心理を経ていく過程を丹念に追っていったところが「タクシードライバー」という映画の優れた点であり、見ていて怖いような緊張感を覚えさせる理由だと思う。

 この意見は別にわたしのオリジナルでもなんでもなくて、たとえば町山智浩の「映画の見方がわかる本」にもある。というか、この本を読んで、「ああ、そういうことか」と合点がいった。

 わたしは「タクシードライバー」というと、2007年の米バージニア工科大学銃乱射事件を思い出す。容疑者のチョ・スンヒも内向的で、ヒーロー願望の強い人間だったようだ。彼がテレビ局に送りつけた銃を構える写真は、「タクシー・ドライバー」でトラヴィスが鏡に向かって格好をつけるポーズによく似ている。後に残したビデオでは、自分をイエス・キリストになぞらえている。あまりに哀しく迷惑な勘違い男である。

→ バージニア工科大学銃乱射事件 - Wikipedia

 トラヴィスをヒーローと捉えるのは、はてどうだろう(チョ・スンヒはヒーローだったろうか)。「タクシードライバー」の問題点――とまで言うと言いすぎだけれども、トラヴィスがヒーローのように勘違いされてしまうのはデニーロがハンサムすぎるからだと思う。ジャック・ブラックやマイケル・ムーア、日本でならドランクドラゴン(どちらが演じてもよい)、あるいは池乃めだかあたりがトラヴィスを演じたら、映画の見え方はずいぶんと違ってくるだろうし、ある意味、トラヴィスの本質がわかりやすくなったと思うのだが。ま、それじゃ、映画はコケたろうけれども・・・。