交換について

 この間、Twitterとクラ交易について書いた。

→ id:yinamoto:20100208

 まあ、例によっての思いつきだったのだが、以来、ぼんやりと「交換」ということについて考えている。

「交換」と言うと交換日記あるいは物々交換のような一対一の関係を考えがちだけれども、必ずしもそうではない。三角形式の交換というのもあるし、あるいはお金を使った交換なんかはもう把握のしようがない複雑さを持っている。

 交換というのは人間の本能のように思う。言葉、婚姻、贈答、お金と商品、人間はいろいろなものを交換する。他の生物がどの程度交換するのかよく知らないが、人間ほどやたらと交換しまくる生物は少なくとも地球上にはいないだろう。いっそ、人類のことをホモ・コーカニエンスと呼びたいくらいだ。

 人間は交換が好きだし、また交換することに時として喜びや面白さを覚える。

 先週、京都の妹夫婦のところに泊まって、暇なとき姪達とトランプをしていた。姪達はまだ幼いのだが、ババ抜きを非常に面白がる。ババ抜きの面白さというのは交換の面白さであって、人間の交換本能をストレートにつつくゲームだと思う。あるいは、カードゲームというのは人間の交換本能に訴えるゲームなのかもしれない。じゃあ、ブラックジャックはどうだ、神経衰弱は、と訊かれると、まあちょっと心もとなくなってくるが、ともあれ、交換というのは人間の情動をいたく刺激するらしい。お中元やお歳暮のやりとりなんかもそうですね。もらうと、これはお返しをしなければ、と平気ではいられなくなる。

 経済というのも交換の複雑化した形であって、経済成長した、というと結構なことに思えるのは、もちろんさまざまな実利もあるけれども、もしかすると交換の量が増えたことにホモ・コーカニエンスとしてポジティブに感じるのかもしれない。資本主義経済が社会主義経済、というか、計画経済を駆逐しつつあるのは、資本主義のほうが人間の交換本能をより多く刺激するからではないか。(あんまりよく知らんのだが)マルクス主義がコケたのは、あるいは生産にばかり目をつけて交換を軽視しすぎたからではないか・・・とまあ、いろいろ思いつきはするのだが、例によってきちんと実証する元気と実力とやる気はない。

 思いつきついでに書くと、日本では「ものづくり」という言葉が非常にもてはやされて、一種の正義のような扱いすら受ける(逆に金融や投資が時に悪意を持って扱われる)。もちろん、「ものづくり」は経済のうえで重要なのだけれども、一方で交換、というか、やりとりの視点を落っことすと、うまくいかんのではないかと思う。ひとり部屋の中でいくらうまく歌ってもしょうがないようなものだ。交換(やりとり)の仕組みを運営する人と商人は重要だと思う。