グラース家の兄弟たち

 少し前に小説家のサリンジャーが亡くなった。ちらほら見ていると、「ライ麦畑でつかまえて」(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」)に絡めて書く追悼文が多いようだ。サリンジャーの代表作であるし、出版後半世紀以上経つのにいまだに売れ続けている驚異的な小説だからだろう。

 わたしも、若い時分に「ライ麦畑でつかまえて」を、たぶん三回読んだ。好きだったからではなく、良さがよくわからなかったからだ。

 最初は有名な小説であるし、タイトルにも何か惹かれるものがあって(今からするとファンシーのにおいがして、んむむむなのだが)、20歳前後の頃に読んだ。ピンと来なかった。

 しかし、話を聞くと、「ライ麦畑でつかまえて」にガツン、とやられた人が結構いるらしい。もう一度読めばわたしもガツンとやられるかも、と思って、再び読んでみた。やはりピンと来なかった。ガツンとやられた口の友人にそう話すと、「出会う時期が遅かったんじゃない?」と言われた。そうかもしれない。二十代前半の頃だ。

 三度目に読んだのがいつだったかは覚えていないが、ああ、おれは主人公の嫌う汚い大人たち側の考え方もわかるなあ、と感じた。ごめんな、汚れちゃってて。

 サリンジャーの作品では、グラース家の兄弟達について書いた一連の作品のほうが好きだった。「グラース・サーガ」とも呼ばれるらしいが(サーガとは大河作品という意味)、サリンジャーにはグラース家の七人兄弟それぞれを主人公にした長編・中編・短編がいくつもある。

 グラース家の七人兄弟はそれぞれに生き辛さを抱えており、その生き辛さは、人との関わりや、やや大げさにいえば社会への適応がうまくいかないせいで生まれるもののようだ。しかし、生き辛くあっても彼ら・彼女らは人や社会と何とかやっていかなければならないし、だからこそ彼ら・彼女らの生き辛さは続く(長男のシーモアを除く)。

 ひるがえって「ライ麦畑でつかまえて」について書くと、主人公のホールデンは大人・社会との関わりを「汚い」「インチキだ」といった調子で拒否する。拒否するのは、その瞬間には簡単だし、もしかしたら潔く、格好よくも見えるかもしれない。しかし、人間、ほうっておけば息をしてしまうし、眠たくなれば眠ってしまうし、腹が減ったら何かを食ってしまう。要するに放っておけば生きてしまうわけで(しかも、時々田舎の両親から電話がかかってきたりする)、生きていくからには世捨て人にでもならない限り、人と折り合いをつけていかざるを得ない。そういう人と関わっていくうえでの生き辛さや自己嫌悪について書いたグラース家物のほうが、わたしは好きである。自分の世界から外をのぞいて悪態をついているホールデンよりも、自分の世界と外の世界をうまく結びつけられずに悩むグラース家の兄弟のほうが共感できる。

 小説というのはそれこそ出会う時期やその人の性質、気分もあって人に勧めにくいものだが、自意識や生き辛さを抱えている人は、気が向いたらグラース家物を読んでみるといいかもしれない。特に短編集の「ナイン・ストーリーズ」は読みやすいのでお勧めです。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)

 グラース家物ではないが、「ナイン・ストーリーズ」の中の「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」はサリンジャーには珍しく救いがあって、好きだ。