年をとるとたいがいの人が経験することだが、人や物の名前がなかなか出てこなくなる。喉元まで出かかってるのに、というやつだ。
友達と映画の話なんかをしてると、俳優の名前を挙げる段になって、よくこの状態に陥る。
「あの人、名前なんだっけ。ほら」
「ああ、はいはい。えーと、なんだっけ。うんうん、あれでしょ、あれに出ていた」
「そう、あれに出ていたあの人。あれだよね、あれ」
と、お互いに誰のことだかはわかっていながら、あれとあの人ばかりを連発して「あ」の字方面で悶え苦しむこととなる。
こういうことというのは記憶がダメになるのだ、と考えがちだが、必ずしもそうではないらしい。記憶それ自体をなくすわけではなく、記憶を引き出す部分がダメになるのだ、と小林秀雄が講演記録*1の中で語っている。アンリ・ベルクソンの説だそうだ。
小林秀雄講演 第2巻―信ずることと考えること [新潮CD] (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 2巻)
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それによれば、脳は記憶それ自体を持っているというより、記憶を引っ張り出してくる仕事をしている。記憶自体はどこかにあって、脳は現実に反応して、記憶の束から必要なものを引っ張りだしてくる。記憶自体がどこにあるのか(脳の中とは決まっていない)、どういう形で納まっているのかはわからない。でもって、昨日書いた例の死の間際の走馬灯現象というのは、脳が現実に対する注意をやめてしまうため、記憶がどっとあふれ出てくる、ということなんだそうだ。
経験的には納得できる話である。先の悶え苦しむ「あ」の字方面の場合でも、何かの拍子にひょいと俳優の名前が出てきたりする。記憶自体は失われていないのであって、ただそれを引っ張り出す部分が故障を起こしているようだ。たとえるなら、記憶が服のように箪笥の引き出しに納まっていて、年をとると建て付けが悪くなり、引き出しをなかなか開けられなくなる。記憶をなかなか引っ張り出せなくなる。と、そういうことなのかもしれない。
いや、本当かどうかは知らないよ。そんなこと、わたしなんぞにわかるわけがない。
ただ、面白い説ではある。もしそうなら、わたしの記憶の中には過去のさまざまな物事が残っていて、三角関数の数式やらヌクレオチドやらの、今となっては無縁となってしまった学校時代の学術方面の記憶も残っている一方で、ガキの時分にミミズに小便をひっかけてチンチンが腫れてしまったなんぞという実にどうでもよい記憶も残っていることになる。これを読んでいる皆様よ、下手すりゃ今あなたが目にしているこの実にどうでもよい文章すらもあなたの記憶の箪笥の引き出しに納まってしまい、走馬灯段階に至ったときに思い出してしまうかもしれないのだ。恐るべきことである。
ところで、わたしの名前はなんだったか。