角界入門の構造は変わらんのではないか

 昨日、日本人横綱待望論への違和感について書いた。

 今の大相撲の活気のかなりの部分を外国人力士の活躍が支えていることは確かだ。おそらく、何らかの規定を設けて外国人力士を締め出せば、全体にこじんまりとしてしまい、大相撲の面白みはだいぶ薄れるのではないかと思う。たとえば、今のプロ野球Jリーグから外国人選手を締め出したらどうなるだろうか。知ってしまった蜜の味、もはや観客が外国人力士の日本人離れした(当たり前だが)相撲の面白みを体験してしまった以上、後には戻れないと思う。

 現在でも外国人力士は一部屋に一人という規定があり、それでもこの隆盛ぶりだ。日本人力士については、個人としてずば抜けた力士が出てくる可能性はあっても、全体として日本人力士群が外国人力士群を圧倒するような状況になることは、今後長い間ないと思う。

 わたしがガキの頃の高見山孤立無援時代と比べると、力士の国際化はずいぶん進んだものだが、一方で、角界入門の構造自体はさほど変わらんのではないか、とも思う。

 貧しい土地で育った図体のでかい少年が腹いっぱい飯を食えることを理由に角界に入る。あるいはそれを釣り文句に相撲部屋がスカウトする。これがまあ、昔の相撲取りのひとつのパターンだったようだ。図体がでかいということはそれだけ飯を食わねばならないということであり、彼らは肩身の狭い思いもしていたようである(アントニオ猪木にも確か似たような逸話があったと思う)。

 でまあ、今の外国人力士たちの出身国を見ると、経済的に恵まれた国はほとんどない。モンゴル、ロシア、エストニアブルガリア・・・。どういうスカウト網があるのかは知らないが、そうした日本に比べれば貧しい国の図体のでかい有望な少年に、さすがに腹いっぱい食えるという理由ではないにしても、金銭面も含めて日本での成功を吹き込み、彼らもそれを夢見て入門する、というのが、外国人力士入門のひとつの型だろうと思う。

 社会が固定されていた昔の日本では(昔といっても昭和四十年代頃にはまだそういうところがあったようだ)、相撲が数少ない脱出の道だったのだと思う。今の日本は経済格差が云々といっても、流動性は高く、個々人の将来に対する自由度も高い。図体のでかい有望な少年が大量に相撲界に入ってくるには、よほど経済格差が広がり、少年たちの将来が固定されなければならないだろうが、まあ、相撲云々を別とすれば、それはあまり望ましい社会とは言えず、皮肉な言い方をすれば、日本人力士があまり活躍しない社会は結構な社会のようにも思う。