当たり前のことを見直してみる〜2

 昨日、「当たり前」の凄さを見直してみることについて書いたが、例えば、シャボン、泡というのも、普段、別にどうとも思わずに使っているけれども、実は大したものだと思うのである。

 日本に初めて石鹸が伝わったのは戦国末期か安土桃山の頃であるらしい。もっとも、当時は南蛮渡来の超高級品であって、一般には普及せず、日本で石鹸が生産されるようになったのは明治時代だそうである。

 それ以前は、石鹸がないんだから、当然、歯磨き粉もなかったろう。口をゆすぐとか、せいぜい塩で揉むくらいだったようだから、キスなんてなかなか強烈な体験だったんではなかろうか(キス自体はすけべえなこととして、昔からあったらしい)。

 いや、当時(江戸時代以前)の人は、臭うのが当然、そういうものだ、と思っていたのかもしらんが、仮に我々がタイムスリップして当時の人とキスをしたら、思わず眉根を寄せて「うげ」とか言ってしまうんじゃなかろうか。

 まあ、シモジモは玄米とか豆類とか、もっぱら植物性の硬いものを食べていてまだマシかもしれないが、魚をよく口にできるような上流のお姫様なんて、かえって強烈だったろうと想像する。あるいは、さらにずずっと遡って、王朝文化華やかなりし平安の源氏物語に出てくるような姫君達なんかは、シャンプーがあるわけでなし、石鹸があるわけでなし、歯磨き粉があるわけでなし、しかも一日中部屋に籠もっているんだから、いくら香を炊き込めても、近づくと(我々の感覚では)なかなか凄まじかったんではないかと思う。

 だから、我々は、もっとシャボン、泡、というものに感謝してもいいように思う。ああいうものがあるおかげで、初めてのキスはイチゴの味だ、レモンの味だ、などと言っていられるのだ。