当たり前のことを見直してみる

 いいことなのか悪いことなのかよくわからないが、人間は物事に慣れてしまう。「面白い!」「便利だ!」「凄い!」と最初は思っても、そのうちに当たり前のこととして意識にも上らなくなる。

 例えば、初めて自転車の補助輪を外したときのことを思い出していただきたい。たいていの人は、若干の不安とともに、体の性能がアップしたような、地に足が着かないような喜びを覚えたんじゃなかろうか(ま、実際、地に足が着いてないわけですが)。しかるに、慣れてしまうと特段うれしくも思わずに、作業として自転車を漕ぐようになる。自分が油をささずにいるのを棚にあげて、「チキショー、ガタがきてやがる」などと文句を付けたりする。

 あるいは、わたしが今、こうやってカタカタとキーボードを打ち、皆さんも今、画面をご覧になっているであろうパソコンというのもそうで、まあ、短期的な欲望をつつくことで成り立っている世の中であるから、あれやこれやと新機能が出てくる。で、物によっては初めて使ったとき、「おお」などと驚くのだが、すぐに慣れてしまい、そのうち鼻糞ほじりながら使うようになる。

 しかしですね、例えば、スプレッドシートで縦三つの欄に「1」「2」「=A1+A2」と書いて、returnキーを押す。すると、「3」という答が自動的に書き込まれる。これだけのことを実現するために、累計でどれだけの技術と何千人のプログラマーの健康が費やされてきたことか。また、たいていの人が初めてreturnキーを押して「3」という答を得たとき、「おお」とちょっと感動したんではないかと思う。少なくとも、わたしは驚いた。そうして、ちょっとばかり感動した。そのとき、それはわたしにとって「当たり前のこと」ではなかったのだ。

 何が言いたいかというと――今、泥縄で考えている。頭の右上あたりにぼんやりあるのだが、まだ言葉にならない。例によっての出たとこ勝負なので、ご勘弁いただきたい。

 あるいは、電卓というのもそうで、わたしが生まれた当時はまだ電卓というものはなかった。初めて親が電卓を買ってきたときのことを何となく覚えている。わたしが小学生のときだ。小さな弁当箱くらいの大きさと厚みがあって、たぶん、数万円したろうと思う。当時の数万円だから、今の数万円とは違う。スイッチを入れ、発光ダイオード(だったか?)が光り、「1」「+」「1」で「=」を押すと、「2」と答が出る。「1」「÷」「3」で「=」を押すと、「0.3333333」と答が出る。暗算したほうが早い計算でも、目の前でしかも「デジタル」の数字で出るのが何ともカッチョよかった。「イカすぜ!」と、当時小学3、4年生だったろうわたしは、ケツを振りながらテクノロジーのビートに酔った。まだ第二次性徴を迎える前だったので下半身には来なかったが、電卓はセクシーだったのである。

 それが、今の電卓は、何と物によっては100円を切っている。下手するとネギのほうが高かったりする。そうして、わたしはセクシーさを忘れ、「ああ、使いにくい」などと不平を垂れながら作業としてキーを押すのだ。

 たまには、自分が当たり前に使っている物、当たり前にしている作業を新鮮な目で見つめ直すのも一興ではないかと思う。我々の日常は、実はいかに驚くべきことの連続で成り立っていることか。

 赤ちゃんや幼児の感覚世界というのは、そういう驚きや感動だらけなのかもしれませんね。そのうち、幸か不幸か、みんな慣れてしまうのだけれども。