水滸伝の日本の大衆文化への影響

 水滸伝を読むと、それが日本の大衆文化に随分と影響を与えていることに気がつく。例えば、高島俊男水滸伝の世界」にこんなことが書いてある。

 もともとわが国には、悲劇的英雄のものがたりはあっても、強くて単純で陽気で乱暴者の豪傑が大あばれ、悪いやつらをさんざんにやっつけて、大臣も将軍もなんのその、というようなものがたりはなかったようだ。これはやはり、海をわたって、水滸伝などとともにわが国へやってきたらしい。

 水滸伝が日本で流布したのは18世紀後半、江戸時代も後期らしい。わたしは日本の伝説や物語に詳しくないけれども、確かに、それ以前の物語に出てくる英雄は、源義経にしろ、平将門にしろ、楠木正成にしろ、悲哀の調子を帯びていると思う。あるいは武田信玄上杉謙信も決して陽気な英雄ではない。陽気な乱暴者を求めるなら、スサノオノミコトのような古代神話の世界にまで遡らないといけなさそうだ。

 水滸伝が流布した江戸後期というのは講釈が形を整えた頃にあたる。石川五右衛門自来也が今知られるような形で講談や読本に登場したのはこの頃で、どうやら水滸伝の影響だったらしい。もう少し経って江戸末期となると、歌舞伎にも白浪物ができあがり、鼠小僧や白浪五人男なんかが人気キャラクターとして現れる。彼らにはあまり悲哀の調子はないし、あってもスパイスとして効かせてある程度で、その魅力の大元は胸のすくような豪快さである。

 いわゆる股旅物なんていうのは――江戸時代の博打打ちの実態なんてわたしは知らないが――非常に水滸伝的である。例えば、水滸伝にこんな一節がある。

 戴宗、宋江を指さして、張順にむかい、
「二郎さん、きみ、この方を知ってるかね。」
 張順、見て、「わたくし知りません。この辺ではついぞ見かけないが。」
 李逵、跳びあがって、
「この方こそは黒宋江。」
 張順、「すなわちかの山東の及時雨、ウン(軍におおざと)城の宋係り長どのではありませぬか。」
 戴宗、「正しく公明あにきだ。」
 張順、はったと平伏して、
「お名前はかねてから承っていましたが、思いもかけぬきょうの出あい。あなたさまのご清徳、弱きを助け、困るをすくい、金ばなれのよいきっぷのよさ、股旅渡世の連中から、何度となく聞きました。」


(「第三十八回 及時雨は神行太保に会い 黒旋風は浪裏白跳と闘う」より。吉川幸次郎・清水茂訳)

 義理と人情と押し出しで股旅渡世連中の声明を得て、名前を聞いただけで侠客が平伏するなんて、宋江はまるで清水次郎長である。乱暴者だが道化ている李逵森の石松を思わせる。

 清水次郎長一家は、侠客それぞれのキャラクターもそうだし、生まれ育ちのばらばらな股旅渡世人達が流れ流れて清水湊で一家を成す、なんていうストーリーも、梁山泊に百八人の豪傑が集まってくる水滸伝とよく似ている。清水次郎長は江戸時代末期から明治にかけての実在の人物であり、一家の中には実在の人物もいるようだが、我々がイメージする清水次郎長物語の原型は、水滸伝にあるように思う。

 中国の宋の時代(日本の平安時代から鎌倉時代頃)の盗賊達の物語が、中国の講談・芝居を通じて物語として整えられ、日本に伝わって白浪物清水次郎長のような股旅物を生み出し、それを我々が今楽しんでいるのだとしたら、大衆文化の伝搬のスケールというのは、地理の点でも時間の点でも大したものだと思う。

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

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水滸伝―完訳 (4) (岩波文庫)

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